本正嘉「わが太平洋戦記」(2001年、私家版)より 

 ※松本正嘉さんは1920年東京・巣鴨生まれ。祖父と同じく宇都宮歩兵第59連隊所属。チチハル~パラオと転戦する。「わが太平洋戦記」は彼自らの戦争体験を書き綴ったもの。慰安婦・慰安所に関する部分、その他いくつかの部分を引用してみました。

(※ページ画像はこちらに。)

 

はじめに

 松本は神様だと言う人が宇都宮を中心に栃木県内に数人居たが、次々に死亡して数名になった。何故神様なのか。

 私は軍隊で幾度か死に直面したが、幸運と自己の努力で今日迄生き延びた。

 しかし、宇都宮の松原氏や蓮田氏などは全く違う理由で神様にしたのだ。南方パラオ本島の最終戦で戦闘は無視して、夫々が生きるために自己の食料を得る努力をしたが、不運にも餓死者が続出した。その中で私は斬込(畑荒し)で多量のサツマイモなどを盗んだ。もち論見つかれば銃殺は覚悟の上で、そのイモを戦友達に配給した。それが神様の様に見えたのだ。

 そして妻すみ子が「自分の父は何をしたのか全く不明だ」と言うのを聞いて、書き始めた。長女美智子が長時間かけて清書して未だに完結はしないのだが、まず、軍隊の記録を最初にまとめることにした。(P1)

 

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(※松本は1942年1月10日、歩兵第66連隊第三機関銃中隊補充隊へ入隊する。以下は宇都宮の連隊兵営での訓練の様子を描いている)

 翌朝、女中に起こされたらまだ真暗だった。時計を見たら四時だ。タ食は二階が先だったので朝食は一階が先だ。一階が終わってから、その食器を洗って二階で使うのだから、急がなければ入営が遅れる。そういうわけで四時に起こされた。これじゃ、ふんだりけったりだ。二階の連中は昨夜遊んできて、まだよく眠っていた。一階の食事が終わって二階を起こすまで相当時間がある。入営前からこれじゃ、先が思いやられる。

 薄暗い街中を下士官に引率されて、皆観念したように黙々と行進した。昭和十七年一月十日、今日から全ての自由を束縛されるのだ。刑務所と同じかそれ以下の社会といわれる軍隊に従って、お国のため天皇陛下の御為に戦死という美名で殺されるのだ。健康な男子であるがための宿命とはいえ、なんと不合理な事だろう。

 部隊の正門前に来て下士官が、「正門から堂々と入営できるのはお前達現役兵だけで、召集兵は正門から入隊できない。名誉と思え」と、いばって言った。営内に入ると、郡別、市町村別と次第に小グループに別れてゆく。昨夜のうちに私の中隊は高森隊と聞いていたので、自分の行き先が判ってきた。そして、高森隊の初年兵が完全に集合した。今度は各班に別れる。大勢の下士官が大声で名前を呼んでいた。その中に一人、態度が横柄で丸顔の意地悪そうな伍長がいた。「どうか、あいつが私の名前を呼ばないように」と、眼をつぶって祈ったのに、私の名前を呼ばれた。昨夜から全くついてない。前途多難が予想される。伍長の指示を受け、上等兵や一等兵に案内されて内務班に入る前に、一人の軍曹が、「松本はお前か。俺は小林軍曹だ。滝ノ川の隣の高田組の若い者だった。高田の親父から、お前は気の小さい人間だから間違いを起こさないよう面倒みてくれと頼まれた。これから困った事があったら相談に来い。俺の中隊は隣の山下部(やまかべ)隊だ」と、軍人らしくない温和な態度で言うと忙しそうに隣の中隊へ戻った。

 内務班に入ると、中央で小柄な上等兵がいばって説明を始めた。

 お前達は第十四師団歩兵五十九連隊第三機関銃中隊要員として歩兵第六十六連隊第三機関銃中隊補充隊に入隊したのだ。中隊長は陸軍中尉高森条四郎殿。第一内務班は大隊砲教官陸軍中尉福田圭。助教陸軍伍長山下菊一。あの丸顔の伍長だ教育助手長島義延。いばっていたのは内務班長陸軍伍長杉山安二。第一内務班専任者渡辺五郎兵長は連隊本部の内務係助手で毎日連隊本部に通い、内務班へは食事と寝る時だけいて、連隊本部にいる時の方が長い。以上が長島上等兵の説明だ。やがて昼食の時間になった。(P8-9)

 

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 初年兵はなんと言っても一期の検閲が終わるまでは地獄の毎日だ。日課は「起きろよ起きろよ皆起きろ。起きないと班長さんに叱られる」の起床ラッパが鳴って不寝番の「起床」の声で起こされ、晴の日は軍衣を正確に着て舎前に急行整列する。二列横隊だが、古参兵が後列に初年兵が前列に並ぶ。後列は番号は要らないが、前列は内務班専任の渡辺兵長が「番号」と号令すると大声で「一」「二」「三」と叫ばなければならない。二、三人前から呼吸を止めて声を出すと意外に大声が出るものだ。最後の者が奇数の時は「欠」、偶数の時は「満」と言う。杉山内務班長が出てくると渡辺兵長が「班長殿に敬礼。頭中、直れ」と号令する。第一内務班総員〇名、事故〇名、事故〇名は馬屋週番上等兵馬屋当番〇名、週番上等兵中隊当番各〇名、衛兵〇名と報告する。班長は自分で週番下士官と協力して勤務表を作るので全部知っているのに毎朝報告を受ける。「おはよう」の挨拶の代りのようだ。間もなく、一段高い所に週番士官が赤いたすきを掛けて現われる。最上位の機関銃の君島軍曹の「週番士官殿に敬礼」の号令で各班が一斉に「頭右」「頭中」「頭左」。週番士官の答礼「直れ」。週番士官の訓示。週番下士官のその日の日程表報告「〇の使役〇名、演習は〇」など。宮城(皇居)各故郷遥拝。各故郷といっても方向が判らず適当に東西南北に向かって最敬礼する。なんとも異様な光景で狂人の集団のようだった。

 次に裸になって乾布摩擦、天つき体操、舟漕ぎ体操、基本体操が終わってやっと日朝点呼が終わり解散となる。これから地獄のような一日が始まる。

 勤務のない古参兵は短剣術のマンゲイコ、別名種付マンゲイコといい、人的資源確保のための内地駐屯の妻帯者だけの特権だ。八名一組でリーグ戦をして優勝者は特別外泊、二位の者は一日外出、三位の者は半日外泊の許可が出て、「種付けに精励せよ」となる。誰でも種付けは別としても婆婆の空気にあたりたいので必死に戦うから短剣術が上達して一石二鳥の効果がある。小銃隊(歩兵)は銃剣術、我々重火器隊は短剣術だ。拳銃は持つが小銃は持たない。重火器(砲兵)白兵戦の時腰に下げた短剣で戦う。毎朝遠くの他の中隊からも気合いの入った鋭い声が聞こえてくる。外泊や外出したさに皆真剣でなまける者はいない。

 勤務は衛兵というのがある。重火器隊ではあまりないが、各門や弾薬庫、連隊本部内にある軍旗の立哨と営舎係上等兵の営内動哨で三人一組となり一時間交代で勤務し、一時間は休養、一時間は衛兵所で待期のサイクルで二十四時間勤務する。他に馬屋当番、中隊当番、将校当番、下士官室当番がある。歩兵は大隊長以上だが、重火器は小隊長以上が乗馬本分者で、専用の保管馬の優秀な乗馬が与えらていた。その馬の取り扱い兵は将校当番とともに交代なしで、将校と外出する機会が多く皆なりたがった。週番上等兵、馬屋週番上等兵、その他使役も毎日多くあった。

 初年兵は一人前の兵隊ではないので勤務使役に一切つけない。週番上等兵の「馬手入れ出ろ」で馬手入れ当番は馬屋へ、舎内当番は班内、下士官室当番は下士官室の掃除、砲手入れ当番は砲廠に入って砲手入と、それぞれ朝食前の初年兵は忙しい。古参兵は何もしないで初年兵の行動を何か文句をつける材料はないかと意地悪く監視している。舎外の当番はよいが、舎内の当番は大勢の古参兵の眼が光る中での行動だから緊張する。

 佐山健二という三年兵の一等兵がいた。同年兵は満州のチチハルで奮闘しているのに、彼は忙しい初年兵とは対照的に毎日何もする事がなくたまに勤務使役はあるが退屈で初年兵いじめが日課だ。入院かなにかの理由による内地勤務のうさ晴らしをする。ある日、私達舎内当番の初年兵十名が掃除中、乙貫と大声を出す。呼ばれた初年兵は「はい。乙貫力也」と彼の前に不動の姿勢で立つ。無言でびんたがとんだ。なぐられて姿勢が崩れるとすぐ不動の姿勢に戻る。精神的ないらつきとあり余る体カでいつ終わるか知れないほどのびんたの連続で、乙貫は鼻血と口内出血で顔中血だらけだ。しかし、他の古参兵は知らん顔だ。初年兵達もいつ鉾先が自分に向けられるかひやひやしながら黙って掃除を続けている。私は「止めろ」と止めたかった。初年兵は皆そう思っていただろうが、それは絶対に許されない事だ。上級者に反逆すると、よくて営倉行き、悪くすると陸軍刑務所行きになる。だから、初年兵は全員この苦しみに耐えなければならない。さすがの佐山も疲れてきた。すごい汗で肩で呼吸している。血だらけの乙貫は班内の隅にある暖炉(ストーブ)の横に座らされていた。頭を九十度横に曲げないと座れない狭い場所だ。「乙貫様。さぞ寒かったでござんしょう。暖くしてあげます」と、佐山は石炭をどんどん投入し、デレッキでかきまわすとストーブはゴーゴー音をたてて燃える。乙貫の血と汗で濡れていた顔も服も乾いて彼はダウンした。これでやっと終わった。乙貫が意識を回復するのにそんなに時間はかからず医務室へ行く事もなかった。どんなに殴っても傷をつけないようにする技術もたいしたものだ。

 明治初年に大日本帝国陸軍創立以来、こういう事が続けられてきた。兵隊と背嚢は叩けば叩く程良くなると言われた伝統的教育法なのだ。この教育によって兵隊が強くなり、日清、日露その他幾多の戦争に勝利したと信じられ受け継がれてきたのだ。しかし、最近の軍の上層部では暴力は兵をいじけさせ高度の技術学問を習得させるにはマイナスと判断して教育法を全面改正した。私的制裁の撲滅と私的感情での暴力は否定され、暴力現場を見つかり現行犯で刑務所送りになった古参兵もいた。しかし、そんな事で長い伝統が変わるものではなく連日暴力は各所で続いた。下士官以下の直接教育に当たる連中は平気で暴力を振うが将校は振わない。幹部候補生の将校は後難を恐れて暴力現場を見ても見ぬふりをする。幼年学校、士官学校を経て来た士官候補生は厳格で暴力行為を目撃すれば見逃す事なく処置した。

 朝食が済むと舎内当番は屋外の洗い場で食器を、食事当番は食缶を洗い、炊事へ返納する。各班が集まるので油断すると盗難があるので箸などに特に注意する。演習に遅れては大変だから急がねばならず、えらい騒ぎだ。

 やっと舎前整列に間に合って演習開始となる。各個教練から始まって、一週間後には歩兵の基本訓練だ。これも一週間で終わって本科の砲や馬の訓練に入り三カ月で全部教科学科を終る。復習はなく判らなくてもどんどん先へ進む。「知りません」ではなく、「忘れました」で処理する。

 教官の福田中尉は幹部候補生の予備兵役で最近召集されたようだ。将校は営外居住でサラリーマンと変わらない。朝出勤してタ方帰る。週番士官の時は一週間営内で生活し、食事は将校集会所でとり、白米だし料理の数も多く、兵隊との差は大きい。身のまわりの一切の世話は当番兵がする。夜は妻の代理までさせる将校もいる。福田教官は温和な性格で軍人らしくない人だ。いつも口数少なく無理な演習はさせない。ところが、助教の山下伍長も予備役の召集兵なのにやたらに張り切ってくそ真面目なので閉口した。重い大砲を扱う演習なので心身ともに健全でなければ勤まらない。こればかりは女性には無理だ。

 激しい演習でへとへとになって午前の部が終わり兵舎に帰って昼食だが、教官、助教、助手の脚絆を外したり身のまわりの世話も十数名でやる。皆点数を上げたいから舎内に入っても一服休みなどできない。飯上げ、舎内掃除、食器洗いなど午後の演習に出る前は忙しい。

 午後の演習が終わってタ食前がまた忙しい。馬手入れ、砲手入れ、下士官室舎内掃除があり、タ食後も各かたづけ後、個人貸与されている小銃、帯剣などの兵器手入れは自分のだけでなく古参兵のもしなければならない。自分の隣のベッドに寝ている古参兵のは特に入念にやらなければならない。隣の古参兵は戦友と言って奴隷のように仕えなければならない。しかし、都合のよい時もある。学科される(叱られる)時、戦友がすぐに止めて殴られずに済む。班の専任者の戦友になれば班内でやられる事はない。そのかわり、頭のてっぺんから爪先まで世話をしなければならない。下着、揮、靴下など一切の洗濯は入浴時に毎日する。食事の時の箸も大古参兵になるほど私物の上等なものを使い、それも戦友の初年兵が管理する。「三年兵は神様で四年兵は仏様。はやく仏様にご飯をあげろ」と怒鳴る者もいて食事の時はいつも大騒ぎだ。下手な女房より細かい所に気を配らねばならない。幸か不幸か、私の左右どちらも同年兵だからその分忙しくないが守ってくれる古参兵がいない。だから私は学科されないように注意した。

 兵器の手入れが終わってやっと一服できるわずかな休息の時間があるが、たばこなどとんでもない。こわい古参兵が待ってましたと学科する。食事当番で要領のいい奴は食缶返しの隊列から離れて、炊事へ行かず酒保へ行く。暗くて顔が判らないので藤棚のある外の面会所でたばこを吸い、顔を見られないように酒保に入り饅頭や団子を買ってズボンのポケットに隠し便所で食べる。下を見れば大きなものがとぐろを巻いている。ズボンは餡などでポケットのまわりが汚れる。これが軍隊の実体だ。

 日夕点呼の一時間前、馬舎週番上等兵が、「水飼に出ろ」と呼ぶ。すると、初年兵達は我先に出て行く。私はしばらくの間何の事か判らなかった。古参兵は「二頭ばかりの馬に何人行くんだ。そんなに行くな」と止める。何かよい事があるから我先に行のだろうと思って同年兵に聞いたら、馬に水を飲ませに行くのだが二頭の馬には二人いればよいから他の者は湯沸かし場でたばこを吸うのが目的で一日中で唯一の楽しい時なのだ。湯沸かし場は初年兵で満員になる。意地悪な馬舎週番上等兵は湯沸かし場に初年兵を入れないが、馬舎週番につくのは何回も召集されたベテランの兵長が多くこのクラスになると初年兵いじめはしない。息子のように扱ってくれる。

 日夕点呼が終わると、山下伍長が「古参兵は解散。初年兵はそのまま」と学科が始まる。約一時間不動の姿勢での学科は楽ではない。私は数学以外は何でも軽く答えられるので平気だが、程度の低い奴がかなりいて、「忘れました」で、びんたが繰り返され最後は共同責任だと初年兵同士で対抗びんたで気合いを入れて殴り合う。消燈ラッパが鳴り、やっと「止め」で一日が終わる。

 就寝前の便所行きで「〇〇二等兵便所へ行って参ります」「〇〇二等兵便所へ行って参りました」の声が各班から聞こえる。昼間は「声が小さい」と言うくせに、「うるさい。皆寝ているんだぞ。よく考えろ」と、びんたがとぶ。就床する時軍服の上下を軍隊流にたたんで食卓の上に整頓し靴下はベッドの下に整頓して置く。襦袢、袴下だけで寝る兵隊には寝巻きはない。ベッドは三人床(二台で三人)や五人床(三台で五人)だからきゅうくつで隣の奴が大きいと大変だが、私の隣は両方とも小男でよかった。

 入隊して日が経つにつれて内務班でも演習でも次第に激しく気合いが入るようになった。そんな中でユーモラスな事が起きた。今(いま)光雄というインテリぶった初年兵が「今便所へ行って参りました」と言った。そばにいた古参兵が「やり直し」「今便所へ行って参りました」「誰が」「今であります」と漫才になった。この古参兵は週番勤務を下番(終わる)したばかりで「今」が姓とは知らないのだ。遂にびんたで皆おかしさをこらえて黙っていて、今光雄二等兵と確認するのに大分時間がかかった。江連博臣の場合も同じで、農村出身の彼がのんびりした栃木なまりで「江連(えずれ)便所へ行って参ります」と言うと、古参兵は判っているのに、「いずれでなく今行ってちょうだい」と、やはり漫才になる。当人は生理現象が限界で青くなってこらえているので皆で大笑いだ。これも私的制裁の一種だ。

学 科(隊内制裁)

 一週間が経過した。タ食準備の時、私と高橋酉之助が舎内当番だった。食事当番が飯を運んで来たが、食器籠の中に飯べらが舎前用舎後用と二個あるはずがひとつしかなくて、飯盛りに倍の時間がかかってしまった。当番表を見ていた助手の長島上等兵が私を呼んだ。高橋はやや知能が低いからか、私一人だけ呼ばれた。「軍隊は全て員数だ。お前の管理が悪いからひとつ紛失した。そのために飯盛りに時間が余計にかかった。敵前において予定時問が遅れたら部隊は全滅だ。これから気をつけろ」と言われびんたは貰わず学科は終わった。個人で学科されるのはこれが初めてだ。やれやれと思う間もなく、テリコミ佐山に呼ばれた。「貴公、たるんでる」と言うのと同時にびんたがきた。数えきれない程きた。口の中が切れて血が流れた。神経が麻庫したのか痛みを感じなくなった。頭がぽうっとして意識が朦朧としてきた。佐山一人でなく数人で交代でやっている。そうするうちに意識が全くなくなった。

 かなり時間が経って、私は意識をとり戻した。こんな社会に二年も三年もいるのはいやだと思った。毎日のように他の中隊で脱走兵が出るが、すぐ憲兵に捕まって陸軍刑所行となる。戸籍にも脱走兵として永久に汚点が残る。自殺者の例は聞いていない。私は自殺を思いついた。しかし、私が自殺したら恭輔氏や三島屋に迷惑がかかる。どうしたらよいかと考えた。入隊の日、わざわざ挨拶に来た下士官がいた。その時はあまり気にとめなかったが、「困った事があったら山下部(やまかべ)隊の下士官室へ来なさい」と言った言葉を思い出して、そこへ行った。もし、小林軍曹がいなければ事態は更に悪くなるのを覚悟して、ドアをノックした。

 中に入ると小林軍曹がいるのがすぐ判った。入隊の日に初めて会った顔だが、軍曹もすぐ判って自分のベッドに私を掛けさせて、黙ったままたばこに火をつけてくれたりキャラメルの箱を開けて、何も言うなという顔で私を見て全て判ってくれたようだ。その事にはふれず滝ノ川の話をした。この小林利雄氏が私の初恋の人である高田菊子さんが熱を上げた人だとはその時は知らなかった。彼と私が高森隊の下士官室に入って行くと、各下士官は立ち上がって敬礼した。彼が横柄に話し始めると、各下士官は「はい、はい」と返事をするだけだ。同じ軍曹でも一等級から四等級くらいまであり、彼は一等級の古参下士官で連隊中に名の知れた軍曹らしい。「よろしく頼むよ」と言って下士官室を出た。内務班へ行くと総員起立で、「上官敬礼」と誰かが叫んで全員敬礼した。「専任者は誰だ」と問うと、長島上等兵が「専任は連隊本部勤務であります。自分が教育助手であります」小林軍曹は「貴公でよし」と、下士官室と同じ話を始めた。「この初年兵は私の友人に依頼されていて、誠実だが気が弱いからあまり気合いを入れると自殺、脱走のおそれがあるから注意しろ」という内容だった。長島は「はい、はい」と聞いていた。長い事話をしていたが、「それでは頼むぞ」と彼は帰った。古参兵も同年兵も白い眼で私を見たが、誰も学科しようとしなかった。隣の中隊にあんな強力な応援者がいるのでは下手に手出しすれば自分の身が危ないからだ。軍曹の一等級になるには兵隊上がりでは十年近く軍隊の飯を食わなければならないので、若い将校さえ敬遠する程権力がある。この人が隊内にいる間は安全だ。なんとかなると思った。彼の出現により、古参兵らが私に気合いを入れる時の態度が少し違うようになった。

 しかし、辛い日が続く。そして、将来は戦死だと考えると生きる希望をなくして、夜中に短剣を隠し持って便所で腹を突いたが、とても痛いので中止した。昔の武士は本当に切胸したのだろうか。南千住の八年間も相当辛かったが死のうと思った事はなかった。軍隊の初年兵教育期間の三カ月は地獄の苦しさだ。このまま社会に戻れば立派な人問になれるのだが、二年兵、三年兵になるとその反動で悪い事を覚えて元の人間になってしまう。しかし、軍隊経験者が逞しくなる事は間違いない。私も殴られる事に慣れて小林班長の所へ泣きつく事はしないで耐えられるようになった。要領もよくなった。

 タ食後の食缶返しを利用して酒保へ行くようにもなった。中隊の古参兵に見つからないように色々工夫して行った。一番ほしいのは饅頭で、その頃地方では見られない大きな唐饅頭を五十銭で十個売ってくれる。金を払って帽子で受け取る時の素早さはみごとだ。沢山のテーブルで酒を飲んでいる古参兵に見られないように暗い外へ駆け足する。古参兵達はそんな時は知らんふりするが、中隊の顔の知った古参兵に見つかれば、彼らも立ち場上見逃す事ができないので学科される。初年兵の酒保行きは禁止されてはいないが、「酒保に来る時間があったら勉強しろ。酒保に来るのはまだ早い」とびんたがとぶのがお決まりだ。団子、落花生なども買って物入れ(ポケット)にいっぱい押し込んで便所に入ると、もうお先がいて落花生の皮がちらかっている。食べ物を班内に持ち込む事は禁止されていて酒保で食べる事になっているが、初年兵は便所で食べた。臭いとか汚いという感覚は次第になくなり、一人でも自由にできる唯一の場所で便所は初年兵のオアシスだった。饅頭だけ残して他の物を全部食べると満腹になり、しばし安らいだ心境になった。饅頭は就床してから毛布をかぶって音をたてないようになめるようにして食べた。

 便所は学科の自習にも使った。一人きりで静かなので典範令がよく頭にはいる。「連大隊砲の主要なる任務は敵の重火器を撲滅若しくは制圧し第一戦歩兵の戦闘に協動するにあり」などは一度で暗記できた。

 内務班はドアがないので冷たい外気が入って冷えるのか、何回も便所に起きる。その都度、軍服をちゃんと着てゆく。(古参兵は着ない)途中、巡回中の不寝番、入口石廊下の不寝番、定位置にも古参兵が立っているので、「不寝番ご苦労様です」と小声で言わなければならず、便所に行くのも大変なのだ。

 あまり身体が冷えて小便が白く見えた。中隊長はお父さん、内務班長はお母さん、古参兵はお兄さんと思って困った事は何でも相談しろと言われているので、ある日杉山班長に相談したら、すぐ受診の手続きをとってくれた。その日の午前中は演習を休んで週番上等兵と医務室へ行った。小便や血液検査の後、見習士官の軍医に「貴公、遊んだか」と聞かれた。初めは意味が判らなかったが、性病だと直感して「はい」と答えた。あそこを痛くなる程触診して軍医は首をかしげていた。結局、冷えが原因で性病ではないと週番上等兵から杉山班長に報告されたが、班長が何も言わないから誰にも知られなかった。意地悪な古参兵に知れたら学科のネタにされるところだった。(P14-27)

 

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(※松本は1942年4月、宇都宮の兵営を出発しチチハルへと向かう)

いよいよ出動は昭和十七年四月二十一日午後六時、営門出発と決まった。

野戦行き

 その日の午後から準備した。背嚢に何枚も毛布を巻きつける。布団を背負って歩くわけだ。その他日用品を背嚢入組品として入れ雑嚢は満杯だ。完全軍装だからすごい重量で、その上、全員に三八式歩兵銃を持たせる。歩兵なら当然だが、私達重火器には指揮班に伝令兵が持つ数丁だけで、分隊長、砲手は拳銃携行となっているのに、行進中はかっこいいかも知れないが、ついでに小銃の輸送をさせる魂胆なのだ。午後六時、勇壮な進軍ラッパを先頭に営門を出た。行進しながら、生きて再びこの営門を見る事ができるだろうかと思った。営門の外は道路の両側に国防婦人会、愛国婦人会のたすきをかけ白い割烹着姿の婦人達、高等女学校の生徒達が歩道を埋めつくしていた。宇都宮駅前の数キロの沿道を隙間なく埋める数だから数万人の婦人達だ。何故か男性の姿はなかった。もう国内に男性は少数しか残っていないのかも知れない。彼女達は六時を期して発車する九時過ぎまで休む事なく「我が大君に召されたる」と出征兵士を送る歌の大合唱をした。華かなのか異様なのか、生涯こんな光景を見る事はないだろう。懐かしい戸祭分院の横を通過し始めた。病院の塀に白衣の人達が鈴なりで手を振っている。十五病棟の人達はいないかと横眼で見たが遠くてよく見えない。きっとあの中に小林軍曹、家守伍長、本間兵長、内海上等兵、荒木一等兵、佐伯二等兵、野本二等兵らがいるのだろう。一時間程の行軍で宇都宮に着いた。半年前ならこっそり出発したのに、大東亜戦争勃発後初の壮丁が出征するので景気づけに派手な出征になったのだ。南方の戦線は関特演も成功して連戦連勝し、全ての作戦が予定通りだからだろう。駅前では婦人会の人達がバケツで運んで来たお茶の接待とマッチの小箱ひとつずつ配っていた。これで精一杯のサービスなのだろう。「物資豊富だった頃はもっと沢山のサービスができたのに」と嘆く老婦人もいた。私と二、三人の人達には面会もなく、他の人が面会人と談笑しているのを見ているだけだった。近くの農家出身者には家族や親戚ら大勢で一人を囲んで泣いたり笑ったり最後の別れを惜しんでいる。県外出身の私と西塚、刑務所下番で二日入営が遅れた瀬下富二の三人は次第に隅の方へ行って見ているだけだった。

 八時頃乗車開始した。関特演のように貨車輸送ではなく普通の三等車で全員の座席もある。しかし、窓の鎧戸が下ろされて車外からは内側が見えないようにしてある。終着駅の広島まで鎧戸は一度も開けられなかった。防諜のためだと思う。車内はお祭のような騒ぎだ。すし、赤飯、餅、うで玉子、饅頭など農家製造の食物を交換している。野中清正は多すぎるうで玉子の処置に困って車内を配って歩いている。私は返す物が何もないから、眠ったふりをして何も貰わなかった。親兄弟のいない者はここでも差別されているみたいで、ひとしお淋しかったが、「畜生。俺も男だ。こんな事で泣いてたまるか」と自分を励ました。九時過ぎに列車は動き出し、賑やかだった車内はいつしか静かになり、深い眠りに入った。

 眼が覚めたのは列車の入れ替えで止まったり動いたりした時で、鎧戸の隙間から外を見たら暗かった。時計を見ると五時五分。よく車外を確めたら東京の品川駅だ。今なら三時間もかからないのに、宇都宮から八時間もかかったのだ。軍用列車は他の列車をストップさせる緊急時は驚く程早いが、他の列車を優先させてこんなに遅い時もある。私達の姿を車外に見せてはいけないので外の状況が判らない。品川駅を出たようだ。広い品川駅構内がだんだん見えなくなった。窓を全開すれば富士山も湘南の海もよく見えただろう。洗面所へ行ったりしているうちに七時頃停車した。「沼津、沼津」と駅員の叫ぶ声が聞こえる。車内にあわただしく弁当が配られた。折詰にはいろいろな副食が入っていて、白米のご飯も豊富だ。麦飯ばかりの私達には大変なご馳走だ。物資不足なのにこんな上等の幕の内弁当があるなんて軍隊だからだろう。朝食が終わると又もがやがや賑やかにトランプ、花札が始まった。身寄りのない私のひがみかも知れないが、昨夜から私だけが仲間外れのようだ。名古屋で昼食、姫路でタ食。いずれも同じ幕の内弁当だ。タ暮れの姫路城が鎧戸の隙間からはっきりととても美しく見えた。

 終着広島駅へ着いたのは深夜零時を過ぎてもう二十三日だった。ここが内地最後の地なので大いに遊ばせてもらえると古参兵に聞いていたので、皆期待していた。真夜中の広島市街を休憩もなくザックザック軍靴の音をたてながら黙々と長時間行進するだけだ。民宿してそれから、と皆期待していたのに着いた所は宇品港だ。民宿どころか屋根だけの休憩所で毛布にくるまって朝までふるえていた。磯の香の風の冷たさで海が近いらしいと判ったが、暗くて何も見えない。夜が明けると海がすぐ近くに見えた。朝食は兵站部給与で軍隊の食事だ。営内と同じ食缶から飯盒に盛ったものだった。昨日の幕の内弁当を想うとがっかりだ。皆は昨日から食べどおしのせいかいつものようにがつがつしていない。がつがつしているのは私だけだ。食事が終わり、今夜はどこかに分宿して内地最後の思い出に広島女性と楽しい時を過そうと、誰もが期待していたのにその思いは夢と消えた。命令会報伝達士官の「命令、部隊は十五時乗船開始。直ちに出航する。それまで現在地に待期。命令終わり」に、皆がっかり肩を落とした。

 その時、「兵隊さん、饅頭やで」「兵隊さん、羊かんやで」と売り声が各所から聞こえた。広島の花街で使う予定で皆現金を相当持っている。私も十円くらい持っていた。やけくそで饅頭でも腹一杯食うかと行列に並んだ。ところが、饅頭や羊かんはなくて魚の干物やみりん干しだ。せっかく並んだんだからと、一円分買った。しばらくすると又「兵隊さん、饅頭やで」と呼ぶので、並ぶとやっぱり魚の干物だ。文句を言うと、「兵隊さん。船に乗ったら何も買えませんよ。満州へ行ったら日本のお金は通用しない。直ぐ戦死するかも知れん。有り金全部買いなさい」と言われ、一銭も残さず魚の干物を買ってしまった。戦友達も同じだ。 やがて、乗船開始だ。桟橋に国防婦人会と愛国婦人会のたすきをかけたおばさんが一人ずつ、たった二人で日の丸の旗を振っていたが、いやいやさせられているようで侘しかった。宇都宮の盛況と比べると同じ軍都でありながら、同じ日本婦人なのに東と西ではこんなに人情が違うのかと思った。ここは日清、日露の戦争以来、多くの出征兵士を送った港町で、毎日の出征にいちいち見送りなどしていられないのだろう。長い年月の間に幾多の出征兵士が悪い事して泣かされてきたので、軍人に反感を持っているのかも知れない。乗船して更に不信感を抱いたのは、船内で酒、ビール、カレーライス、甘い物何でも売っている事だ。皆、有り金は魚の干物になってしまっている。私達はだまされたのだ。戦死するかも知れない我々からだまし取るとは広島の人間は汚い奴らだ。儲けるためには手段を選ばない。関東以北の商人は義理人情に厚いのだ。貴重な体験をした。その後、パラオ島で広島に原爆が投下されたと報道された時、当然の報いだと思ったが、冷静に考えると、ごく一部の悪徳商人のために広島県人全部が悪人のように思われて気の毒でもある。

 船内の給食は二度で、二度とも大刀魚と竹の子の煮物が副食だった。関東地方では見かけない初めての脂肪の少ない軟い魚だった。

大陸へ―釜山上陸

 二十四日早朝、朝鮮の釜山に上陸した。玄海灘の荒波をのりこえて、私達が眠っているうちに釜山に入港していた。山に向かって行進し着いたのは日本人小学の常盤小学校校庭だ。ここで休憩中、珍しそうに児童が集まって来た。まだ金を持っている奴が児童に夏みかんやバナナを買いにやった。行軍中に商店街の店先に沢山の果物があった。わずかな時間だが子供達と楽しく遊んだ。夜暗くなるので待っていたように行動開始した。どうも暗くなってからの行動が多い。釜山駅へ行軍中、泣きながら後を追う子供達がいた。依頼された買い物の品物を渡さないうちに我々が行動してしまい、暗くて同じスタイルの兵隊の顔を忘れて名前も知らないから必死になって依頼した兵隊を探しているが、見つからないのだ。

 駅の構内に直行し、乗せられたのは貨車だ。宇都宮駅の華やかな出発とはあまりにも違う。これも防諜上やむを得ない事なのだろう。チチハル着は二十九日の予定だから、五日間も暗い貨車での輸送は気が重い。戸はもち論開けられない。たったひとつのランプが侘しい。便所がないので、小の時は戸を少しだけ開けてするので問題ないが、大の時は戸を大分開けなければならないし、身体を二、三名で押えていないと揺れるので落ちる危険がある。風向きによっては、つかんでいる者の身体に爆弾やしぶきが飛んでくる。強い風も入ってきて寒い。食事は五日間同じメニューでいやなニュウムの食缶に真黒な麦飯(内地のものより黒く感じる)と副食は毛のついた大きな塊の豚肉、人参、大根、じゃが芋の入った味噌汁と辛い沢庵だ。広島で買った魚の干物もなくなって各兵站部給与のこの食事以外にはたまに上がる下給品のキャラメル、バンザイ飴が何粒かだけだ。将校や下士官も同乗しているから馬鹿騒ぎもできず、暗くて読書も駄目、もち論花札もできない。仕方なく横になっているしかないが、車内が狭いので互いに一人ひとり頭部を交叉して反対側の奴の足が顎に当たる。足の裏が臭い。おまけに一発かまされる事もあって牛馬の輸送と変わらない。列車はいつの間にか満州に入っていた。停車時間がすごく長い。三、四時間はざらで十時間以上も止まっている事もあった。連絡係の下士官が駅長を連れてきてダイヤなど質問するが、「ダイヤメーヨ、オーデプチド(ダイヤはない、私は知らない)」を繰り返すだけだ。日本の国鉄と違ってダイヤはあってもないのと同じでルーズだ。大陸性の気質の満州人がのんびり働いているのだから仕方ない。兵隊がいらいらしてきたので、遂に輸送指揮官か全員を下車させて体操させる事も何回かあった。

 昭和十七年四月二十九日午前十時頃、やっと目的地満州黒竜江省チチハル駅に着いた。宇都宮を出発して九日目だった。駅から重い装具を背負って駐屯地の南大営の兵舎まで行軍した。市街地は完全に満州という感じで、もうもうと砂挨の舞う目貫き通りは繁華街らしく相当な賑わいだ。市街をはさんで北大営、南大営に別れて宇都宮十四師団が駐屯している。高崎十五連隊や水戸二連隊は北大営に駐屯している。南大営の我が部隊の営門まで一時間程かかった。

満州第二一九部隊井上隊に配属

 営門を入ると兵舎は内地では木造で小学校の様だが、ここは煉瓦造りだ。チチハル駅へ迎えに来ていた若い将校は私達の小隊長井上英雄少尉だ。彼の伯父は陸軍大将井上幾太郎で軍人一家なのだ。彼は幼年学校、士官学校の優等生で有名だ。舎前に整列して彼の訓示を聞いた。駅での第一印象通り今まで接した将校の中で一番好感が持てた。名前が書かれたピンク色の液体の入った罎があった。訓示を聞きながら何だろうと考えていたが、うがい水で、全員がらがらうがいしてから舎内に入った。

 すでに各班に食事の準備ができていた。正午をとっくに過ぎていた。私の好物の赤飯だ。それに何だか判らないが尾頭つきの焼き魚、甘煮もあるし酒もある。宇都宮では入隊の日にこんなご馳走はなかった。私達の入隊祝いかと思ったら天長節だったのだ。四大節の中でも特に祝う日だ。

 内務班の専任兼教育助手の市川光雄兵長が長々と内務班その他の説明を始めた。当部隊は明治三十八年八月八日創立の第十四師団歩兵五十九連隊第三大隊砲小隊。内地の六十六連隊補充隊では第三機関銃中隊の指揮下にあったが、我が小隊は中隊の指揮下に入らず大隊直属の独立小隊である。以上が固有名で、防諜上、部隊名は満州第二一九部隊井上隊という。

 内地の古参兵は暇だから悪い事をしたり初年兵いじめをしたが、ここの古参兵にそんないいかげんな奴はいない。皆真剣な眼をしていて、戦闘こそしていないがいつ戦闘状態になるか判らない。チチハルは戦闘基地で東北西のソ満国境へ出動できる態勢にあるので連日勤務で、その合間に猛演習があり遊んでいる兵隊はいないし練兵休もいない。部隊の大半は現在西部国境アルシャンに国境警備隊として駐屯しているので、内務班にも留守隊の少数の兵隊しかいない。

 五月一日午前、私達の入隊式が連隊本部前で行われた。内地では初夏だというのに、ここは風がなくてもすごく寒い。そのうち、雪が降り出してますます寒くなった。それでもじっと我慢して長いこと整列していなければならない。連隊長江口八郎大佐の訓話は長くて閉口した。彼は二・二六事件に関係していて、同期生は将官に昇進しているのに、ずっと大佐で終戦までここの連隊長だった。高級将校は一年か半年で転任進級があるのだから、彼がいかに冷遇されていたかが歴然としている。そのため「毎日彼はごほんごほんと咳をする。金筋が五本ほしい。少将になりたい咳だ」と皆言っている。(P56-67)

 

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(※以下、P86-93、P96-99はチチハルの様子が描かれている)

 広い平地にぽつんぽつんと点在する満人の家へひやかしに行ったり、そんな時は楽しかった。薄汚いニー公(引用者注:「ニー公」とは「満人」のこと)の家の入口に立つ。中は暗くてよく見えない。汚い男が出て来ると私はなるべく紳士的にソフトムードで笑いながら「ニーハオ」と言うのだが、彼らは警戒してじろじろ私を見る。何しに来たという態度だ。先輩達がずい分悪い事をしたようだから無理もない。「チータヨー(卵ありますか)。トートーウバマイマイ(じゃがいも売って下さい)」と言っても、鋭い眼で見るだけで返事もしない。私達を見るといきなり「オーファンズニャルメユー(我が家に女はいない)」と言う家もあった。数年前までは女を見つけると犯して殺害する事はあたり前のように行われていたのだ。支配者の当然の権利のように思っていたのだ。「リーベンピントンヤンキ(日本兵は東洋の鬼だ)」と、彼らが日本兵を憎むのは当然だ。

 そんな時、私一人で卵を沢山徴発して来た事があった。五人以下で行動しては危険だと言われていた時代に、私一人で満人の家へ行って無事に帰れた事が不思議なのに、沢山卵を持って来たので皆が驚いた。しかし、私には簡単な事だ。彼らが最もほしがるマッチを二、三個持って糸、軍手、軍足、石鹸などを風呂敷に包み、たばこ一ボールを見せる。物資は何でも不足しているが、マッチは専売制だから極端に不足していて、マッチー個でサイコサイコ、カンホジ(性交)もOKという程の貴重品だ。満人の地方人は物資不足で困難な生活をしていたが、軍隊内ではマッチなど自由に入手できるし、たばこは酒保の割り当てが兵隊一人に一カ月千本だ。他に将校は営外の軍人会館で自由に買える。兵隊も外出した時兵士ホームで自由に酒を飲み、たばこは何遍でも買えた。それらの物資を飯店などで闇取り引きするのだ。たばこを見せながら、「ヤンジロー(たばこ)ヤンジロー」と叫ぶと彼らが集まって来て、たばこを一箱ずつやれば大喜びで私を殺すなどとは思わなくなる。風呂敷を拡げて、「マイマイトルチェン(売るぞ。いくらだ)」と言えば、彼らは警戒心を解いてしまう。奥の手はマッチだ。ポケットから手品師のようにひとつずつ出したり入れたりすると、彼らは完全に私のペースにはまって眼を丸くして、本当に売るのか、今時そんなに物資があるのかと言うような表情をする。だから、いくら高くても売れるが、私はせいぜい十倍か二十倍で売った。彼らは「シーサン(先生)」とか「タイジン(大人)」とか最高の中国語で私に敬意を表わした。そうなったらしめたもので農作物を手に入れるのは簡単だ。私がほしいのは卵だけだったが、彼らも私の真意が判って卵をいくらでも提供してくれた。そうなると、卵などどうでもよくなり、彼らと日本語と中国語のちゃぽんで話し合うのが楽しくなった。

 何回も彼らと会って満州の現状を聞いた。男児が生まれると、「オーメンファーズ(駄目だ)」と捨てる。川岸や公園に捨てられた赤ん坊は大半は死ぬが、同じ運命で成人したニー公が育てる場合もある。だから、自分の名前も年齢も知らない者が大勢いる。結婚は人身売買なので金のない彼らは独身で終わる。女児が生まれると、「テンホー、テンホー(良い)」と大喜びする。成人すると売れるからだ。美人の条件のひとつにテンソクがある。足の成長を止めて成人しても足首から下は赤ん坊と同じだ。顔が美しくて足が小さければ、チビでもデブでも高い値段がつく。「チャカデ、ニャンル、トルチェン(この女いくら)」「メンズテンホーで高い。八十円」「チャカデメンズプシン(美人でない)二十円」という具合だ。金のある者は十人も夫人がいて、同じ家の中で共同生活をしてよくトラブルが起きないものだ。自分が商品であるという認識があるから、彼女達は平気なのかもしれない。貞操観念は日本とは逆で、処女性は問題にしないフリーセックスだが、マダムになったら日本の処女のように尊重する。しかし、夫が賭博に夫人を賭けて負けて泣きながら勝者に渡される事もある。翌日勝負が逆転して元の夫に戻る事もある。このような中国の風習などを話してくれて、彼らとの会話は中国語も覚えられるし楽しかった。

大隊演習

 真夏の盛りに南大営周辺十数キロで大隊の演習が始まった。私は指揮班の伝令要員に編成された。大きな演習になると歩くのが主で技術的な事はあまりやらない。夜になって私と野中が伝令に出た。この演習では各陣地に鯖の陣地、鮫の陣地というように魚の名前がつけられていた。私達二人ははるか前方の鮭の陣地へ勇んで出発したが、暗闇で一寸先も見えない。時々、内地では見た事のないすごい稲妻が光り、かなり明るくなるので、ほんの一瞬だが大きな黒い櫓が見えた。馬占山高地と呼んでいるその櫓の目印にしているが、時々光る稲妻のせいで右に見えたり、左に見えたり、前方だったり後方だったり、目前にあったりで、蟻地獄に入ったように同じ所をぐるぐる廻っているのだ。馬占山高地の周囲は満人墓地で、棺箱を半分地上に出してあるので箱の中の死体をふんずけたりした。疲れてきたので、任務を放棄して身の安全を考えるようになった。やたらと臭う味瓜の香を求めて味瓜畑へたどり着き、二人で味瓜を腹一杯食べて、又歩き出したが、その後の事は判らない。気がついたら拡大な原野で二人して眠っていたのだ。太陽は真上にあり、時計を見ると十一時を過ぎていた。私達は昨夜は歩き続けてここで眠ってしまったのだ。ここがどこだか判らなかったが、意外にもすぐ近くに部隊は集結していた。私達の小隊はすぐに判って、小隊長で内務係の肥田弘一郎曹長の前で申告した。どんな処罰があるかと懸念したが、曹長は「お前達は事故死したと思っていたが、無事でよかった」と言っただけで、私達は罪にならないで終わった。演習が終わって数日間は馬や馬具、砲付属品などの手入れで大変だった。

 日曜日に私達初年兵にも楽しい外出許可が出た。もち論、団体外出だ。歩兵は自分の身のまわりの整理だけすればよいが、重火器は砲や馬が余分だ。馬全部にひと汗かかせる運動をさせてからでないと外出できない。私の愛馬森武は乗馬できないので、他の毛付兵が勤務のため運動させられない他の馬に乗馬した。初めはぎこちない乗馬だったが、鐙に足をかけずにたて髪を掴んで飛び乗りもできるようになっていた。速歩もなんとかできるようになった。武富に乗った。この青毛の馬は横目でじろじろ見るユーモラスな癖と、尻を斜めに上げておならをする変な癖があった。集団で営内を出る時、軍用犬が一斉に吠えたら、武富が頭を下げて横っとびに走り出した。私は予期していなかったので落馬した。鐙は基本通り浅くかけていたので引きずられる事なく、落ちたら絶対動くなと教育されていたのでじっとしていたら、二十頭近い馬が私の身体を跳び越えて行った。馬の運動が終わると、一装用(上等)の軍服で舎前整列。機関銃の内務係大橋曹長が独特の栃木なまりの大橋節で「お前達、外出したなれば絶対に支那人に近づくな。支那人の飲食店に入るな。暴飲暴食すんな。慰安所へ行ったれば必ず突撃一番(コンドーム)を使用せよ。突撃一番の無き者は申し出よ」と、長々と御説教する。初年兵には関係ない事ばかりだ。初年兵が慰安所や飲屋へ行ったら半殺しにされる。チチハル市街は道路が補装されていないので砂挨がすごい。そこをぶらぶら歩いたり、日本人経営の大豊洋行秋山洋行で若い女店員とふざけたり、竜沙公園で露店の汚い菓子を買い食いしたり、大橋曹長の注意を無視してニー公の砲口ガイ写真を撮るくらいしか楽しみはない。竜沙公園はチチハルの名所だが、あちこちのベンチでニー公が厚い綿が入った冬服の虱とりをしていた。一年中着たきり雀だから裸になれる真夏が虱とりのシーズンらしい。大きな腹の女性がいた。日本兵が力一杯その腹を殴ると、女性は怒って大声で叫んだ。「プシン、スーラー(いけない。死ぬ)」それを聞いて皆大笑いした。中国人を犬か猫くらいにしか思っていないのだ。だから、目本兵か数名で歩いていると何をされるか判らないので彼らは逃げる。外出の往復もマーチヨ(馬車)を占領して只乗りしたり、人数が多い時は御者のニー公を蹴落としたり、悪い事のし放題だ。表面は至る所に建国十周年日満親善の看板が立っているが、裏に廻れば殺人も平気で行われ、犯人が日本人と判ればごまかしてしまう。治安は悪く、何種類もの警察らしいものの他に日本に憲兵隊、独立守備隊が満鉄などの治安を守っている。日本のように戸籍制度が徹底していないので写真を貼った身分証明書を持たされ、満鉄の駅には独立守備隊がその任務の主なものである満鉄を守るために、身分証明書を持っていても徹底的に身体検査をする。貴重なたばこを一本一本折って調べたり、「プシン、プシン」といやがる姑娘のバストを真剣な顔でもみもみするのを彼らは役得だと思っているのだ。

 又、大きな演習が始まった。渡河演習だ。私は第一分隊の弾薬馬の御兵になった。行軍中は戦砲隊砲馬の後から馬の手綱を持ってついて行けばよいのだ。駐軍間も弾薬は弾薬手の責任だし、馬の手入れは指揮班や戦砲隊の連中も手伝ってくれる。私は馬の手綱を持って馬を動かさないようにしていれば、手入れは全部してくれるのだからテンホポタリだ。戦闘間は後方の安全な場所で馬を守っていればよい。ところが、午後になって大雨が降ってきた。全身ずぶ濡れで、馬も冷くて気分が悪いのか眼を細くしている。身体が冷えたのか、腹がきりきり激しく痛くなった。指揮官の布袋田準尉は付近にいない。敵襲に備えて各馬は散開しているので、戦友を呼ぶ事もできない。このままでは死んでしまいそうな激痛にじっと耐えるしか方法はない。大雨の中、何も命令を聞かないが各馬が移動開始した。

私も動き出した。前方に見える満人部落へ向って行くようだ。部隊は満人部落に集合した。指揮官はこの大雨の中、長時間駐軍すれば病兵病馬が多数出ると、過去の経験から判断して独断で行動したようだった。満人の家に一頭ずつ入れる事にしたが、馬を家の中に入れる事ができず、軒下に人れて雨にあてないようにして手入れをするのだが、腹痛に耐えている私にはそんな余裕はなかった。そばにヤンチョ(干草)が高く積んであったので、ずぶ濡れのままもぐり込んで、頭だけ出して手綱を身体にしばりつけて横になった。少し臭いが意外に暖かい。身体が冷えきっていたので、しばらくはふるえが止まらなかったが、次第に身体が暖まり腹痛も治った。いつの間にか眠ってしまい、眼が覚めたらタ方で薄暗くなっていた。濡れていた服も乾いたし、腹痛も完全に治ったし、気分がよかった。馬に水飼、飼付だけして手入れなどは怠けてやらなかった。私も携帯食糧でタ食を済ませ、又ヤンチョにもぐり込んで眠った。朝迄眼が覚めず、夜中に数回やらなければならなかった水飼、飼付など全くしなかったが、馬は元気で異常ない。私がヤンチョの中で眠っていた頃、指揮班戦砲隊の連中は大雨の中、大砲を輓いたり、分解搬送したり、工兵隊との共同作戦で舟で渡河したり朝まで大変だった。午前中に渡河演習は状況終わりで、帰営の途についた。彼らはふらふらで行軍していて、病人も沢山出たらしい。(P86-93)

 

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 いよいよ、興安嶺突破演習が始まった。演習とは言っても、実弾携行で実戦と同じだ。経験豊富な古参兵によれば「実戦は敵弾が飛んでくるが、でたらめができるからまだよい。今度の演習は相当苦労するぞ。下手すると、大分犠牲者が出るかも知れない」という事だ。渡河演習の時は、私は弾薬分隊の御兵でターターテンホー(大変よかった)が、今度の編成では第一分隊の五番砲手だ。天国と地獄程の差だ。野球の打順と同じで、三番砲手が距離、四番砲手が方向を準備するので重要な順番だ。そして、五番砲手だ。行軍間は何でも馬に積むので皆同じだが、戦闘になると重い標準具箱や標カンを持ってのかけ足は苦しい。しかも、標準箱にはパノラマ眼鏡が入っている。これがないと大砲はただの鉄の塊で、盲目砲撃になってしまう。だから、大切に扱わなければならない。三番砲手が戦死、負傷となれば直ちに交代する任務もある。私は本科だから指揮班や弾薬分隊へ編成される事はあまりなく、いつも戦砲隊だ。不思議な事に第一分隊村田伍長の指揮下に入ったのは、村田伍長がなぜか私を気に入っているらしいからだと思った。西塚は今回は間島省延吉の教導学校(下士官養成学校)にいていない。札蘭屯(ジャラントン)まで貨車で輸送された。釜山以来おなじみの貨車だ。輸送の苦労も慣れたが、満鉄は相変らず慢々デー(遅い)。いつ目的地に着くのか判らない。しかし、いざという時は民間の列車は全部ストップして軍用列車優先の超スピードで国境の前線へ輸送する事になっている。三日目の昼頃、やっと札蘭屯のひとつ手前のジンギスカン駅に着いた。又も長時間ストップだ。今度は満鉄の慢々デーに関係ないストップだ。

 昨夜、この付近を強力な匪賊が襲撃して各地を荒らし、日本婦人二名を人質にして前方に見える小高い山にたてこもっている。人質は奴らが安全に逃走するための手段だ。帝国陸軍の精鋭関東軍の大部隊が通過できない。人命軽視の時代だから、婦人二名の生命は間題ではないが、目前の匪賊を全滅にしなければ、世界最強陸軍の名誉にかかわる。直ちに将校斥候が出動した。すぐ戻ってきて状況報告。兵力は約一個大隊、山砲クラスの砲数門など火器を有するも密集しているなどの状態からみて、軍事訓練はない盗賊の集団であると判断した司令官は我が満州二一九部第三大隊に出動命令を下した。戸田与衛門大尉が率いる我が大隊は勇躍出動準備した。戸田大隊長からの命令「九中隊左翼、十中隊右翼、十一、十二中隊予備隊、機関銃中隊中央援護、大隊砲小隊全面援護、ガス弾三十発準備」などを受けて準備開始した。弾薬受領は大隊本部の弾薬班か連隊本部かなどと、命令が徹底しないでまごまごしていると中止の命令が来た。戦闘は終わったのだ。軍司令部は数師団を動かす大きな司令部で、命令が徹底しない場合が多い。他の部隊がガス弾数発を発射して突撃したら敵は全滅していた。防毒面もない部隊だったのだ。もち論、邦人女性二名も死んだだろう。突撃した歩兵達は応戦が全くなく、不気味で拍子抜けした事だろう。こんな戦闘なら毎日でもいいと皆が大笑いした。

 そして、部隊は札蘭屯で下車し行動開始した。地上には戦車や各車輌が夥しく、上空には飛行機も参加しての大演習だ。弾薬は空砲ではなく実弾で、これは演習ではなく実戦なのだ。ソ連領内に侵攻したドイツ軍は優勢で、モスクワ陥落は時間の問題だ。我が関東軍の精鋭がソ満国境を突破すればソ連軍が壊滅する事は歴然としているのに、日ソ中立条約などあるために日本軍は国境を突破できない。国際信義に反するからだ。しかし、目標はソ連陸軍を壊滅する事で、南方戦線は召集兵の集団で新しい軍旗を拝した寄せ集め部隊で間に合わせだ。現役兵でかためた関東軍の精鋭数十万が満を持しているのは何のためか。だから、この演習はソ連も牽制する大本営の指令で動く実戦なのだ。数十万の大軍が西部国境へ移動すれば、ソ連軍は日本軍の攻撃と錯覚して攻撃してくるだろう。それを理由に一挙に国境突破し、一カ月以内に全ソ連領土を占領する作戦だったのだ。しかし、ソ連の方が役者が一枚上でその手にのらず失敗に終わったのだが、国境線へ至るまでの四十数日間はこの世の地獄だった。

 札蘭屯を出発した第一日目、早くも第一分隊砲架馬御兵西野五郎一等兵が落伍した。仮病だ。支那事変や多くの大きな演習を経験した彼はこの演習がいかに大きな演習であり、一番責任の重い全ての基準になる第一分隊の砲架馬御兵はすごい苦労をするであろう事を予想して、落ちるなら早い方がよく、予備馬の数が多いうちなら乗馬で行動できる。そう判断して第一日目にやったのだ。衛生兵の金子芳一上等兵が診断して、大した事はなく予備馬で行動できると判断した。仮病と分かっていても万一の事を思うと、そうするより方法はないのだろう。その後が大変だ。砲架馬御兵を誰が命ぜられるかだ。相当の強者でベテランでなければ、隊の基準になり先頭を行く馬だから誰でもできるものではない。意外にも、「松本二等兵、第一分隊砲架馬御兵を命ずる」という命令が出た。小隊一の弱者の私が何故この大役をと皆驚いている。松本みたいなぱっとしない初年兵に勤まるわけがないという顔をしている。しかし、命令は絶対である。できる、できないの問題ではない。倒れるまでこの仕務を遂行しなければならない。五番砲手だった私は直ちに砲架馬の手綱を取った。いつもなら、第一分隊の砲架馬はベテランの松丘に決まっていたのだが、彼も寄る年波に勝てずチチハルに残留した。大演習は無理だと判断されたのだ。(P96-99)

 

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周水子への冬季特別訓練

 秋期の演習も終わって十月になった。チチハルは朝晩零下二十度くらいになる。三年兵の金子芳一兵長が「松本、今日、連隊本部で今冬満州に冬季特別訓練隊なるものを編成して、保健兵、初年兵の弱者を避寒させる事になった。教育助手にお前を推薦した。お前は国境で二度も寒さで倒れた。梨樹鎮は最低気温零下二十八度だが、チチハルは零下四十度以下になる。お前にはとても無理なので、近く命令が出たら行け」と言う。私も自分の身体が寒さに弱く、チチハルで冬が越せるかと考えていた所だ。金子兵長殿は衛生兵として隊全員の健康管理の義務があるとはいえ、私の事も忘れずに心配りをしてくれて、只感謝した。しかし、これが普通軍人恩給失格の原因となってしまった。

 命令が出た。昭和十八年十月二十日より昭和十九年四月二十日まで、関東州周水子第四〇四二部隊へ派遣を命ず。二年兵は私一人で初年兵は鈴木武、機関銃の関谷、召集兵の室井三郎は栃木県のブルジョワしか行けない那須温泉の旅館の御曹子。明大の学生で徴集猶余で二十五歳を過ぎているロートル初年兵だ。大学では落第したのか、入学が遅かったのか、ひげ面でいつもにやにやしている。機関銃から外に一名で計五名は、十七日朝、私を先頭に隊長室、将校室、事務室、下士官室を申告に廻った。「陸軍一等兵松本正嘉以下五名は、昭和十八年十月二十日より昭和十九年四月二十日まで、冬季訓練隊要員として関東州周水子第四〇四二部隊へ派遣を命ぜられました。ここに謹んで申告します」と何回も繰り返した。私達は各中隊から数名ずつ選抜された保健兵と合流して連隊の指揮下に入った。

 チチハルから満鉄に乗車し、南へ向って出発した。客車の三等車を借り切っている。通常は貨物輸送だが、少人数なので客車にしたのだろう。軍用列車ではなく、一般の列車に増結したのだ。個人の場合は満人が三等車、軍人は二等車、大人(えらい人)は一等車と決まっているが、団体貸し切りで初年兵が主なので三等車になったのだろう。翌朝早く、四平街駅(新京の近く)で眼が覚めた。初めて指揮者になったのだが、責任感など全く感じずよく眠った。駅が大きいので、この街は相当大きいと想像した。全員下車し、ホームで体操した。駅の端にアンペラで囲った便所がずらりと並んでいる。軍用列車が絶えず停車し、多くの将兵が利用するので沢山あるのだ。誠にお粗末で、日本の都会人には使用できたい。しゃがんでもアンペラから首が出るし、アンペラは破れていて中は丸見えだ。仕方なく中へ入ってしゃがんだら、下でもそもそ動く物がある。よく見ると、ニー公が私を見上げてにやにや笑っている。驚いた私は「ショマ(何だ)」と叫んだ。(P154-155)

 

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(※松本は1943年10月~12月の間、周水子に行く前に梨樹鎮という人口一万くらいの小さな町に東部国境警備任務のために赴任している。以下P124~125は梨樹鎮の様子を描いたものである)

 街中やニー公部落で毎晩火災が発生し、連夜の非常呼集や火災呼集で睡眠不足だ。それに馬車の水運搬がスムーズにゆかず、水不足で入浴が一日おき、二日おきになった。それもおえら方が入った後は、浴槽の底にぬるい湯が少ししかなく、ひらめのように入る。木製の小さな浴槽だから暖まらない。病人が出ないのが不思議なくらい異常な毎日だ。それで、ついに街の銭湯へ行く事になった。各隊ごとに下士官引率で行った。「盆糖」と看板が出ていて、のれんはないが日本の銭湯と同じだ。両横に長く建っているものには「男女盆糖」と書いてあるのが気になった。満州は入口はどこでも二重、三重のドアがある。番台は日本のものと同じだ。中に入ったとたん、強烈なにんにくの臭いと蒸し風呂のむっとする熱気で気分が悪くなった。脱衣場は広くて、生まれたままの姿のニー公達がソファに寝そべって何か食べていて、奥の方には舞台もあった。戦後できたヘルスセンターはこれを真似したのかもしれない。ニー公達は月に一度くらいしか入浴しない。五銭の入浴料で一日中風呂に入ったり出たり、物を食べたり、日本人が温泉へ行くように、これが彼らのレジャーなのだろう。更に奥には個室浴場があって、女学生が売春していた。彼女達の貞操観念は日本とは逆で、独身の時はフリーで結婚すると堅く身を守る。慰安所の朝鮮ピーなど問題にならないくらい楽しい所だそうで、これを真似たのがソープランドなのだろう。風呂場では、これも生まれたままの姿の三助がモップを振りまわして何か叫んでいる。試しに背中を流して貰った。日本と同じウモチン(五銭)だ。石鹸は使わず、ただゴシゴシ硬い物でこするだけだから、皮膚が赤くなり痛いので「ワンラ(終り)」と言っても、垢が出るまでは止めない。やっと解放されて外へ出ると、零下二十度以下の寒さだからぐずぐずしていると身体が凍ってしまいそうで、急いで帰営した。

 今日は師団長閣下が視察に来る日だ。勤務や使役のない兵は街外れに整列して迎えた。私もその中にいた。撃列したまま長いこと待ったが、閣下一行はなかなか来ない。しかし、我々の前を種々の満人が通るから、たいくつはしない。変な奴が来ると野次ったりするが、引率の将校も下士官も笑っていて咎めない。絶世の美人が通った。皆が「李香蘭だ」と言うが、よく見ると別人だ。将校の説明によると、街一番の店である中央飯店の姑娘で二十歳すぎくらいで、満人特有の鋭い眼をしているが、久しく見た事のない美人だ。上等な毛皮のコートを着ており、帽子、ハイヒールもかなりの上物らしい。映画に出てくるような女性だ。我々兵隊など眼中にない素振りで楓爽と通り過ぎた。その時、椿事が起きた。彼女が堂々と手鼻をかんだのだ。(P124-125)

 

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(松本は1943年12月~44年3月までの3カ月間、東部国境警備任務のため梨樹鎮から周水子へ分遣となった。以下P132~133、P136~145、P162~163は周水子の様子を描いたものである)

 週番下士官や週番上等兵の指示で事務室を定位置に雑用をする雑役兵は、屋内なのに巻脚絆をして兵舎内を使い走りする。余禄は夜間演習や使役者の夜食の員数をごまかして、饅頭などを大量に食える事と、屋外へ出ないので疲労しない事だ。チチハルから移動する最後の週に私は中隊当番の雑役兵だった。出発の前日、下士官候補生の野沢忠男と日夕点呼後の暗い事務室でビールを飲んで別れを惜しんだ。彼は私より二歳年下の志願兵で、西塚周一と二人下士候に合格して、間島省延吉の教導学校へ入学するのだ。志願兵の蓮田二三は不合格で火工兵になり、チチハルの火薬調整で国境へ来るのが三カ月遅くなり私も周水子へ三カ月分遣になった。彼と私と幹部候補生で内地の士官学校に入学した青木武男の三人は後に軍人恩給不適格になり、延吉で一年間学んでいた西塚は恩給を受給した。国境警備の第一線にいた者が受給できず、朝鮮に近い延吉にいた者が受給できるのは不合理だと、戦友会などで問題になって、松原氏などが県庁へ調査に行ったが、私の場合は十一日不足で、第一線は四倍、周水子では〇・五倍(日本国土)倍加算なので駄目なのだ。

 野沢や西塚がチチハルへ帰った頃、私は周水子にいた。昭和十八年十二月だった。対ソ戦に備えて、優秀な現役兵を主とする関東軍の精鋭部隊が、ア号演習、イ号演習の暗号で次々に南方の戦線へ動員下令になった。南方の戦局が日増しに悪化して、寄せ集め師団やぼかちん(撃沈)の生き残り部隊では対抗不能となったのだ。しかし、時すでに遅く、制海権、制空権は敵の手中にあり、大連などを出港した輸送船団は台湾沖、レイテ沖などで米軍の機動部隊に撃沈されて全滅した。その中に、野沢、川上、高橋酉之助、高橋正雄、北条時正、伊藤内蔵人、大垣安二、鈴木朝二、小谷など、初年兵の時から苦楽を共にした同年兵が次々に転属して戦死した。私も周水子にいなかったら、彼らと運命を共にしただろう。あの時、人目を忍んで野沢と飲んだ一杯のビールが永遠の別れの盃になってしまった。(P132-133)

 

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(※松本は痔のため入院する)

私のべッドは一番奥だ。隣は野島上等兵だ。彼は歩兵の補充兵で、質屋の番頭を長くしていたせいかソフトムードで軍人らしくない。宇都宮の病院でもそうだったが、入院すると軍人精神はなくなり地方人のような気分になる。いかにも農村出身らしい素朴な感じの衛生兵は一人でこの病院の全ての仕事をしていた。「昼も夜も絶食。午後浣腸する」と言って出て行った。

 タ方、大きな丼に油がぎらぎらした液体を持って来て、「全部飲め」と言うので、見ただけで気分が悪くなったが、無理して飲んだ。量が多すぎて一気に飲めない。いやな味だが、やっと全部飲んだ。浣腸もしたが、何も変化はなく効果はなかった。八時頃、衛生兵が「軍医殿は忙しくて当分野戦病院には来られないから、手術はいつになるか不明だ。食事をしてもよいが、食事は全部処理して残飯もない。明朝まで待て」と言う。昼も夜も絶食しているので、空腹を通り越してしまった。痛みは治まっているので食欲は旺盛なのだが、黙って従うより仕方ない。野島上等兵が「気の毒だが、ここは無いといったら本当に何も無い野戦病院なんだ。外出して食事する方法もあるが、夜は抗日分子の危険があるから我慢して寝よう」と言った。点呼もなく空腹に耐えて寝た。翌朝、起床して早く食事したかったが、一人の衛生兵が治療から食事の世話まで全てをやっているから、すぐ食事を運んでくれない。やっと一日ぶりの食事をして冷静になれた。病室はひとつだけだった。

 野島上等兵の話を聞いた。あの衛生兵は本科で補充兵、選抜されたのではなく初めから衛生兵だから、各中隊から選抜された衛生兵のように優秀ではない。一に衛生、二にラッパ、三まで下がって縫装兵、歩兵の本科は馬鹿がすると歌われた衛生兵だ。陸軍病院や兵站病院勤務なら、看護婦と一緒でよい事もあるし、軍隊の感じはないから病院づきの衛生兵は一番楽だ。この病院で今年の夏、赤痢が発生し、下痢患者が多かった。各患者に八升樽を一個ずつ支給し、患者は終日樽に腰掛けて、樽からおりる事なく百回以上も下痢をした者も大勢いた。死亡者も多数出た。

 毎週金曜日は八千代館、朝日館の慰安所の朝鮮ピーの定期検査日で、病院内が白粉の臭いと彼女達のやかましい朝鮮語のおしゃべりで賑かだ。お尻をまくると手術台に上がって、平気で足を開く。衛生兵一人で診るので手が足りなく私達患者も手伝うが、私はジャングル地帯をまともに見られない。彼女達はカワラ毛が多い。唐辛子を常用するため無毛が多いらしい。六人の患者は皆痔で、それも悪性の痔瘻で十センチも深く切り取られ肉が上がるまで相当日数がかかりそうだ。軍医が言った大ジ主とはこの患者達の事だったのだ。 三日目の夜遅く、水田軍医があわただしく「手術」だと言う。絶食も浣腸もしていないし、痛みもないので私は不満だったが、「いぽ痔の手術くらい、何もしてなくても大丈夫だ」と言うので、拒否できずに手術台に上がった。患部を剃毛しただけで麻酔も簡単にして、手術は七分で終わった。注射も切開も全く痛くなかったが、足がしびれていたので衛生兵の肩につかまって病室へ帰った。二時間ほど経過すると、槍で突き刺すように激しく痛み出した。眼の時も痛かったが、今度のは心臓がおかしくなるのではと心配になるほどだ。それでもいつの間にか眠った。翌朝になって、ずきんずきんと痛むのは止まったが、一寸動くと血が騒ぐような痛みが長く続いた。しかし、昨夜ほどではなく、じっとしていれば耐えられる。さすがに食欲はなく、重湯をスプーンで一ロ食べて止めた。一週間痛みは続き、その間一度も便器を使わず、痛みをこらえて時間をかけて便所まで歩いた。一週間経つとどんどん回復して、普通に動けるようになった。

 十二月八日は大東亜戦争開戦一周年記念日だ。部隊では何か行事があるだろうが、ここでは何も予定はないようだ。朝食後しばらくして、国防婦人会のたすきをかけた女性が何人か来た。各ベッドに一人ずつついて、戸棚の清掃などを始めた。私のベッドに二十七歳くらいの面長でやせて長身の女性が来て、椅子にかけて持参の柿、梨、りんごを手箱にのせて皮をむいて小さく切って口に入れてくれた。しかし、私の好みのタイプではない。私は神妙に重病人を装って彼女のするままにしていると、顔を拭いたり、ベッドの破れを持参の針で縫ったりした。無口らしく、「具合はどうです」とか、「お国はどちらですか」くらいしか言わない。一時間ほどで慰問団は帰ったが、彼女達は何者なのだろう。ツーピースを着てインテリ風に見えるから、この街の日本人学校の先生だろうか。そんな邦人は住んでいないとか、ジ主連は議論して時間つぶしになった。

 そして、金曜日だ。軽症で退院近い私に助手を頼むと言われて、彼女らの検査の手伝いをした。和服、ワンピースなど様々な彼女ら二十人が入ってきたので治療室は壮観だ。少しは恥しそうにすればと思うのだが、平気でお尻を出して台に上がる。衛生兵は馴れた手つきでアヒルの口みたいな器具をあそこに入れて顔を近づけて中を見る。十センチもある大きな器具を入れられても痛そうでもない。二十人の検査はそれほど時間がかからなかった。夜になって、隣の事務室から衛生兵が電話をかけている。電話の感度が悪いのか、すごい大声だからよく聞こえた。「八千代館百合子月経三日休業。花子異常なし。波子軟性下疳休業」という具合に二軒の慰安所のピー達の検査結果を司令部へ報告しているのだ。衛生一等兵がこんな重要な仕事をしていいのだろうか。本人は正確な報告をしようと懸命に大声を出しているのだろうが、病室で聞いている我々は笑いをこらえていた。十二月二十日、私は退院した。大ジ主達はまだまだ全治まで日数がかかりそうだ。

 病院下番なので、毎日班内監視でのんびりしていたのに、十二月二十五日の大正天皇祭の日に単独外出許可となった。古参兵達は中央飯店で一杯やって慰安所へ行くが、初年兵の私は飲む事もできず、チチハルのような映画館も公園もない。寒さは厳しいし、行く所のない私はいつの間にか、八千代館へ来ていた。チチハルとは違い、兵隊数は多くないから中の兵隊はがつがつしていない。待合所で数名の兵隊がピーをひやかしている。坂本藤三郎上等兵がいた。彼は将校当番を長くしていて二年兵だ。一寸意地悪なところがあるが、器用な男で私にはいつも好感をもっているようだ。しかし、まずい奴に会ってしまった。今更どうしようもない。先日、蓮田二三、片岡金位、高橋酉之助、下ゲ橋善一、鈴木朝二、浅野喜助、伊藤内蔵人、瀬下富二らと一等兵に進級したので、隊以外では堂々としていれば、初年兵か二年兵か三年兵か召集兵か判らない。そう思ってピー買いに来たのだが、同じ内務班の古参兵に見つかったのではどうしようもない。近寄って来たピーが「遊ぶ?」と言うので、「うん」と言ってバラックの廊下をがたがたさせて一番奥の部屋へ素早く入った。他のピーがなみ子と呼んでいたそのピーを部屋に入ってよく見てびっくりした。彼女も驚いている様子だ。病院へ慰問に来て私のベッドでサービスしてくれたあの無ロな女性だったのだ。チチハルの慰安所のように忙しそうではなく落ちついている。室内は大体同じだが、部屋の隅に朝鮮独特の大きなタイコ花、札もやし、なんばんなどが雑然と置いてある。裸になった彼女は寝ながら聞きもしないのに話を始めた。 朝鮮人は同じ天皇の赤子なのに、志願兵はあるが徴兵制度がない。この非常時に朝鮮の同胞がお国のためにつくせないのが残念だ。祖国防衛のために苦労している将兵に、何か慰問できたらと思っていた時、日本人の悪質な業者に「皇軍慰問に行かないか」と誘われて、いくらかの現金を受領して契約書に捺印したら、人身売買が成立し合法的に奴隷になってしまった。現地に来て慰問の手段に驚いたが、すでに遅かった。生ける屍になったのだ。私の想像通り、朝鮮の田舎で小学校の教師をしていたから、日本語が上手なのだ。

 昭和十四年、第一線における性犯罪防止のためにできた慰安所を設置する法律で、軍が奨励するので悪い業者がどれほど儲けた事だろう。ピー十人を抱えて軍と行動を共にすれば、配給は軍並みにある。チチハル辺りでは、一回二、三分の料金が二円十銭。資本はゼロに近いから、ひと財産作るのは簡単だ。彼女はインテリらしく慰安所の仕組を説明する。昼間は兵隊相手で、夜は営外居住の将校、準士官相手の二十四時間勤務で、一年中休日はないから、どのピーもやせて青白い顔をしている。軍馬の方がずっとましな生活をしている。ゆうべは田辺少尉が朝までアタックで参ったといやな顔をして言う。あの勤勉実直な田辺少尉が、彼女達の人権を無視して、あの巨体で攻撃したのでは参るはずだ。

 「将校下士官は憎いが、兵隊さんはかわいそうだ。何も知らないうぶな若い初年兵にはうんとサービスするの。お金がなくて外出したら、又来てね」と、姉か母親になったような気分なのだろう。部屋を出ると、ピーがすごい啖呵を切っていた。「私のスーちゃん伍長、軍曹ないよ。二等兵だよ。星ひとつだよ。文句あっか」それを兵隊達は楽しそうに見ていた。

 内務班では、古参兵達が初年兵のくせにピー買いした私にびんたをくれようと待っているだろうと、覚悟して帰ったが、誰も何も言わない。坂本上等兵は何も言わなかったのだ。忙しくて、どうでもよいらしい。 国境の町にも暮が押し迫っていた。街中にあわただしさを感じる。商店には、紙製の中国独特のデコレーションや豚の頭など珍しい商品が並んでいる。日本でも新巻鮭がないと年越しができない所があるように、彼らも豚の頭がないと正月にならないようだ。三月の旧暦が彼らの本当の正月だが、一月にも日本人と一緒に正月をする。

 炊事へ餅搗きの使役に行った。すごい数の臼で一店に搗き始める。壮観だ。搗き上がった餅はのしてすぐ倉庫へ入れると、そのままみるみる凍ってしまう。元旦にかちんかちんに凍ったのし餅を週番上等兵がハンマーで割って分配する。雑煮の汁、おせち料理、酒、みかんなども上がる。馬にもご馳走として人参が上がると、目を細くしてうまそうに食べる。分配された餅を内務班で食事当番がハンマーで割って熱い汁に入れると、搗きたての餅になる。こうして、昭和十八年、軍隊で初めての正月を国境で迎えたが、初年兵の私達には少年時代のこみ上げてくる嬉しさはない。あの頃は、浅草で映画館へ行くのが最高の楽しみだったが、ここには慰安所の他に娯楽施設はない。外出しても慰安所以外に行く所はない。その後もなみ子は相変わらずサービスがよかった。

 ある目、なみ子は営業中だったので百合子と遊んだが、なみ子より大分若いのでわがままなのか、態度が悪かった。「病気があるなら、そう言えば突撃一番を使ったのに」と怒っている。何の事かと思ったら、私のが切れて出血している。朝鮮の女性は大体無毛であそこが小さいので、よくある事なのだ。襦袢のすそも一緒に入ったようだ。悪い病気になったら困るとも思うのだが、開戦になれば散る命だとやけになって慰安所に通った。

 二月になると、使役が多くなり街へ出る機会も多くなった。ここは豆の産地で豆腐屋が多い。日本の豆腐と同じだ。十本入りたばこ一箱と豆腐一丁を交換した。数人でたばこ十箱で豆腐十丁を交換して食べたが、三箱は空だ。悪い事をしたと思ったが、初年兵だから相場を知らないのだ。実は、たばこ一箱は豆腐二十丁から三十丁の価値があったのだ。豆腐屋のジャングイをだましたつもりが、ジャングイの方が役者が一枚上だった。こんな事をチチハルへ帰るまで続けたのだから、ジャングイは大儲けしたわけだ。

 怪しいファンズ(家)に五人が警戒しながら入った。外の汚さとは対照的に中は華かだ。テーブルを囲んで麻雀をしていた。私達は一寸ひるんだが、彼らは私達を見るとほほえみながら、「チャーベンライ(こっちへ来なさい)」と言うので、テーブルに近づいた。「チャカミンバイ(これ判るか)」「ターターミンバイ(よく知っている)」「ニーカンホジー(あなたもやりませんか)」麻雀のパイは日本のものより大きい。しばらく見ていたが、こんな所で油を売っていて憲兵に見つかったら一大事だし、私は麻雀ができない。他の連中も百姓ばかりで花札くらいしかできない。私が「チンメユー(金はない)」と言うと、彼らはなあんだというような顔をした。どうやら、抗日分子ではなさそうなので安心した。部屋のまわりにきれいなカーテンがかかっていて、カーテンの間から姑娘が手招きをする。近づくと、カーテンの中はベッドで中国独特の二人用の長枕がある。姑娘は寝巻姿で「ヤンホーヨー、ヤンジローヨー、石鹸ヨー、糸ヨー」と言う。その他なんでも一個でショートタイムOKのショートルピー(淫売)なのだ。どのピーも故意に失明させたのか、片眼が白い。このピー達も悪徳商人のえじきになって、生涯ここで奴隷として終わるのだ。

 行軍の後をぞろぞろと女子供が大きな洗面器やバケツを持ってついて来る。私達の飯盒飯を狙っているのだ。飯盒飯を食べ始めると、彼女らは私達のまわりに立つ。飯盒飯の副食は干鱈、茄子の辛子漬、タクアンといつも決まっていてまずいので、古参兵は半分以上地面に捨てる。彼女らは泥だらけになった麦飯を残さず拾う。お礼のつもりか、皆味瓜をひとつずつ持って来る。泥だらけの麦飯を洗って干して、おかゆや重湯にして食べるらしい。コーリャンや粟の配給も満足にないので、麦飯はご馳走なのだ。残飯を真剣に拾う姿は実に哀れだ。(P136-145)

 

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同年兵も私に好意を持っているようだ。特に滝口は気持ちが悪いほどで、女形の真似をして横坐りで迫ってくる。お獅子のように金歯をぱくぱくさせながら「私、態度のでかい押しかけ女房」と、炊事から持ってきたご馳走を飯盒から出して私に食べさせる。一般の兵隊はとても口にできない特別メニューを炊事の連中だけで余禄として食べるご馳走だ。滝口は縫工兵で、炊事の連中の注文通りに、きれいな布で衿布を作ったりしてやる見返りなのだ。初めはおかまみたいで嫌だったが、彼も縫工兵とはいえ、現役兵としてのプライドがある所を何回か見て、次第に彼との友情は篤くなっていった。チチハルで死んだ仙婆以来の親友になった。テリコミ(序列が下位)同士だから尚更気が合い、内務班では、私と滝ロは夫婦だと言われるようになった。彼がふざけて女のように身体をくねくねさせるからだ。その点だけが私は不満だった。チチハルでは三年兵の倉林と二年兵の神山がホモで、毎晩抱き合って寝ていたし、将校が兵隊を抱き寝する話は聞くが、彼はこまめにピー買いをしていた。

 周水子は大連へ二里、旅順へ六里の分岐点だ。兵站部隊の集結地で戦闘部隊ではないので、現役兵がいないロートル部隊だ。両隣は関東軍で有名な七二〇部隊と三八〇部隊だ。七二〇部隊は加給品を扱う司令部で、甘い物、辛い物全てがここから全満州の部隊へ送られる。三八〇部隊は保管馬養成所で、仔馬を調教して乗馬、挽馬に仕上げ各部隊へ配属させる。チチハルのように戦闘部隊の集結地ではないのでのんびりしていて、東京より暖かく、防寒具はもち論、軍手の使用も許可されない。点呼も舎外でできる。私が将校用の白い作業服を着て初年兵教育をしていると、私を将校とまちがえて、週番副官の曹長が敬礼をした。衛門を出る時も、衛兵が棒銃をする。全関東軍の寄せ集め部隊で、日も浅いので誰も顔が判らずまちがえるのだ。いくら頑張っても私は絶対に将校にはなれないのだから、将校気分を味わうのも悪くない。こんなのんびりした生活は北満に比べれば天国だ。

 ある日曜日、私達古参兵だけの外出で大連へ行った。新井、小林、知久らの補充兵、滝口、木村、堀越、尾崎、石川らの現役兵だ。一人で初年兵教育をしているからか、こういう時も私が自然にリーダーになってしまう。満鉄で大連へ行き、駅から電車に乗った。乗客は満人ばかりでにんにく臭い。電車は満人専用で、邦人軍人はバスに乗る事になっているので、ルール違反だ。そんな事かまうもんかと乗っていたが、憲兵に見つかるとうるさいし、にんにくの臭気に参って直ぐ降りて街をぶらぶら歩いた。街の目抜き通りにいるのは日本人ばかりで、満人は小岡子という町に集まってひっそり暮している。日本人に何をされるか判らないから、繁華街へは出てこない。赤坂町は芸者屋の街で、高級軍人や悪徳商人どもで連日賑わっている。私達兵隊が行く所は春日町電停から少し歩いて逢坂町くじゃくの門をくぐった所の玉ノ井のような花街だ。チチハルほど兵隊がいないから、若い兵隊が珍しいのか、ピー達の黄色い声があちこちから聞こえる。元気のよいピーが私達の前で、「コロコロ(来る来る)コント日曜コロコロとウソパツカシ。カラスのコツプでピールノモ。クツクツシナイテ、ケタモツテアカリナサイ。セイシンキメテ、オトコニナリナサイ」と、片言の日本語で叫んで笑わせる。ここも朝鮮ピーだ。

 しばらく、ひやかして歩き、品川樓という大きな看板の店に上がる事に決めた。入ロで七、八人のピーがからんできた。がやがや騒ぐピー達を遊び人の小林が制して、「松本から選べばよい。あのピーが一番美人だからあれにしなさい」と、どんどん決めてゆく。小林自身は年増で肉感的なピーを選んだ。彼くらいのベテランになると顔より身体で選ぶ。私は年増やブスは嫌だ。ここもバラック建てだが、部屋はわりと椅麗で布団も上等だ。湯たんぽも入っている。チチハルの慰安所とは比べものにならない。共同便所のようにがつがつした所はなく、ピーも親切で落ちついている。「悦子です。よろしく」と礼儀正しく挨拶し、饅頭をひとつお盆に載せて持ってきた。私は無意識にその饅頭を食べたが、長時間並んでようやく買ったたったひとつの饅頭だと聞いて、後悔した。彼女はピー特有のやせで、スマートというのかも知れないが、私は好きでない。足首に吹き出物があるのも気になったが、それでも、優しく親切な女はほのぽのとしたやすらぎを与えてくれる。持参した麦飯のおにぎりを差し出すと、彼女は夢中で食べた。毎日、空腹で重労働を強いられているのだと、かわいそうに思った。「麦飯でよかったら沢山持って来てやるぞ」「本当に来てね」部屋を出ると、皆私を待っていた。小林が「どうでした。あのピー良かったでしょう。俺の方も満足でした」と言うので、「そうか、良かったな」と調子を合わせた。

 それから、私達古参兵は日夕点呼後、堂々と営門を出て逢坂町へ通った。片道二里をマラソンで行くが、優しいピーに会うのが楽しみで遠くは感じなかった。悦子が私のにぎり飯を持っていると思うと、走る足どりも軽くなる。彼女はにぎり飯や甘味品を涙を流しながら、がつがつ食べる。私達がもてるのは、マドロスが主な客でたまに来る兵隊も兵站部部隊のロートルばかりで、若い兵隊が珍しいからなのだ。軍隊生活中、一人のピーに頻繁に通ったのはここだけだ。朝鮮嫌いの私だが、悦子は朝鮮人でも心が相通じてよかった。北満の戦友達は苦労しているのに、暖い土地でこんなでたらめを三ヵ月もしていた。(P162-163)

 

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(※1944年3月、松本はチチハルへ帰ってくる)

三月末、六カ月間の国境警備の任務が終わって、チチハルの屯営へ帰隊した。兵器、被服、陣営具、馬匹の輸送、整備、検査と大変な仕事も終わり、四月三日の神武天皇祭の休日に、単独外出の許可が出た。私は一等兵で星ふたつになり、一人前の兵士なのだから堂々と一人で行動した。街を歩くと、満人より軍人の方が多い。軍都だから当然だ。上官が多くて敬礼の連続だ。ソ満国境で戦闘開始すれば、すぐに出動する部隊の北満の大集結地で、十数万とも数十万とも言われるほどの軍人が溢れている。街がパンクするので、月曜日は何部隊、火曜日は何部隊と毎日交代で外出しているので、一年中お祭りのような人出だ。しかも、この日は祭日だから、相当数の軍人で街は混雑している。

 私の行き先はピー屋以外にない。いつまでも初年兵でもあるまい。竜沙公園で飴をなめてもいられない。第一、第二、第三と慰安所を回ったが、どこも超満員で、仕方なく第三慰安所に入った。満員の兵隊で歩く事もままならない。どの部屋の前も行列だ。狭い所に並んでいるので、皆必死に前の奴の肩につかまっている。時々、大声が聞こえた。「こら、横から入るな。後へ並べ」「貴公、何年徴集だ。生意気な奴だ。こっちへ来い」「何年兵だ。態度がでかいぞ」私も並んでいるが、何時間待たされるのだろう。帰営時間に間に合うだろうかと不安になったが、順調に消化されている。一人三~五分くらいで処理してゆく。そして、私の番だ。部屋に人り、巻脚絆を外し始めるとピーがもう片方を外す。その隣りで今終わった兵隊が忙しそうに脚絆を巻いている。ピーは皆やせているが、このピーは小肥りで裸の上に浴衣をひっかけていた。無言のまま料金を払い、素早く処理した。ピーは洗浄にも行かず、ほうきで掃き始める。早く帰れという合図だ。まごまごしていると、次の奴が上がってしまうから、大急ぎで部屋を出なければならない。共同便所だ。

 三月に宇都宮に入営した初年兵が入隊して来た。私達は二年兵になった。私は一月十日入営だったが、今年の初年兵と三年兵は三月十日入営だ。二ヵ月早く入営した私達は、宇都宮とチチハルで二度一期の検閲を受りたのに、今年の初年兵は宇都宮ではお客様扱いだし、チチハルへ来ても教育班という内務班ができて彼らだけの内務班生活だ。古参兵は助手だけなので、私達と比べたら天国だ。(P148-149)

 

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チチハルへ帰営

 暮から正月にかけて暗いニュースばかりだった。南方の各戦線で玉砕、転進(退却)など、思わしくない情報が続出した。チチハルからも私が尊敬する肥田準尉はじめ多くの戦友が転属して、イ号演習、ナ号演習などの名目で南下して行く。私達は対ソ戦要員で、現役兵証書にもはっきり在満要員と書いてあったのに、南方作戦が急を告げ、作戦は大きく変更になった。世界最強の陸軍と言われた関東軍が現役兵の精鋭を南下させて、ソ満国境の警備はどうなるのだ。戦局は南方の方が重要になってきたのだ。南方へ動員された我が輸送船団は次々にタイワン沖、レイテ沖で待ち伏せしている米軍の機動部隊に次々に撃沈されている。制空権、制海権を完全に奪われてしまったこの戦況の中では、犬死に行くようなものだが、大本営は尚も次々に部隊を編成して南下させる。無事、目的地に着いたという報告はなく、船団は全滅だと報道している。うその発表が大本営発表だと言われるくらいなのに、真実に近い報道をしている。報道者の真意が判らない。

 ナ号演習での戦死者は、同年兵では野沢忠夫軍曹、川上酉二兵長、江連博臣上等兵、北条武上等兵、伊藤内蔵人上等兵、初年兵では斉藤勝上等兵、森田真一郎上等兵、小藤次雄一等兵、村田正雄上等兵。その他、イ号演習、サイパン島の戦死者は、肥田弘一郎準尉、塚田七郎軍曹、同年兵では山口開三上等兵、高橋酉之助上等兵、下ケ橋善一上等兵、鈴木朝二上等兵、初年兵では高橋宏(コーちゃん)一等兵、藤田梅雄一等兵、村川効司一等兵、中山文夫上等兵、長岡上等兵、村上金助上等兵、大平順之助上等兵などで、この他、三年兵、召集兵も多数が太平洋の藻屑と消えた。おそらく、鮫の餌食となったのだろう。

 このようなニュースが入る度に、元気だった彼らの笑顔が浮かんで、いやな毎日だった。皆苦しんで死んでいったろうに、私は暖い土地で連日のピー買いだ。

 しかし、私達も同じ運命になるのはそう遠くない。二月一日付で現役兵全員チチハルへ帰営せよの命令が出た。今度は転属ではなく、他部隊から転属させて補充し十四師団が各軍旗諸共南下する。南下はこれが最後になるだろう。この時私達が教育している補充兵が南方要員だったのに、彼らでは南方戦線の戦闘は不可能な程、戦況は悪化していた。満州を見捨てる作戦なのだ。補充兵達も私達の後から南下して、フィリピンのルソン島ダバオ沖でボカチン(撃沈)されている事が、昭和四十九年頃判明した。(玲子と栃木県佐野市堀米の栢島辰造氏の兄に聞いた)その彼らと短い期間だったが、よく殴った思い出などを惜しむ暇もなく、当然送別会もなく、挨拶する暇もなく、チチハルへ出発した。

 防諜上、五人一組に編成され、普通列車に乗った。二等車の運賃を支給されたが、半額の三等車に乗った。憲兵に見つかれば処罰されるのは覚悟の上だ。乗客は私達以外は満人だから、彼らの体臭とにんにくの臭いで頭痛がしたが、次第に慣れた。滝ロも一緒だったが、陽気な彼が真剣な顔をしているので変だと思ったら、他の列車(一等車か二等車らしい)の窓のカーテンを切ってショートル(盗む)したのだ。青色の模様入りの光る上等の生地だ。これでボストンバッグを作ると言っている。

 しばらくして、一人の兵隊が雑嚢を持って便所へ行った。次の者が背嚢を持って行く。入れ替り立ち替り便所へ行く。彼らは便所にあるりんごをショートルしているのだ。私にも行けと言うので、いたずら心を起こして便所に行くと、りんごは篭の底に少しかない。一杯入っていただろうに、ニー公がかわいそうになったが、ショートルしないと仲間外れのような気がして残り全部を持って来て、一ロ食べては放るという無駄な食べ方をした。貴重な食料を無駄食いする私達を見ている満人の心境はどんなだろう。被支配国の人間の悲しさを感じているだろう。たった五人の日本兵の横暴な行動を黙って見ているだけだ。私達のそばに立っているニー公はりんごの持ち主らしく、泣き顔で「アイヤ、メンファーズ、リーベンピン(ひどいよ、日本兵)」と私達を呪む。彼らは南満でりんごや落花生を仕入れて北満で売るブローカーなのだ。統制の厳しい闇物資なので、便所に隠したつもりが私達に全部ショートルされて、怒るのは当り前だ。しかし、彼らはくじけずに、すぐ次の商売を考えるたくましい商魂を持っている。「ヤンジロヨウ」と追ってくる。りんごを全部やられたのだから、いやとは言わせないぞという追力があり、私達は彼のペースに引き込まれるように、たばこを次々に出すと、いくら高く言っても、彼は平然と札束を懐から出して買うのだ。私は十倍の値段で二ボール(四十個)売ったが、彼は高いとは言わずに「テンホー、テンホー」とご機嫌がよくなり、私達と日満親善という事になった。

 往路は四日もかかったのに、復路は約一昼夜でチチハルに着いた。営内は出動準備で至る処に大荷物が積み上げられ、兵隊は忙しそうに動き回っている。隊長以下に申告に行くと、その場で命令が出た。準士官、下士官の独身寮の宝木寮の当番兵を磯幸雄と交代するのだ。彼は農家出身の真面目人間だ。その後任だから大変だと思ったら、磯は「毎日暇で、あんなよい所はない。慣れれば呑気なものだ。肥田準尉殿が出動の時は一寸忙しかったが」と言う。申し送りによる任務は我が隊の田谷曹長、機関銃中隊の菊地曹長、一〇中隊の小板橋曹長、どれもいやな奴ばかりで、この三人の当番兵だ。洗濯などの身のまわりは営内の当番兵がやるし、食事はそれぞれが自由に食堂でするので手がかからない。三人の部屋の掃除と長靴の手入れが私の仕事だ。

 出動間近かになったので、私は配給品を購入しに軍人会館へ公用外出する。荷造りは各隊からの兵隊がするから、三人が朝出勤したら、簡単に掃除をして外出する。公用外出の腕章は常時つけていて、何時でもどこでもフリーパスだ。隊へ連絡に行くと、待ちかねた連中に時計、万年筆、軍足、石鹸、眼鏡など、あらゆる品物をいくらでもよいから売って来てくれと頼まれた。南方へ行けば戦死するのに決まっているのだから、重要な物は内地の留守家族へ送って、残りの私物は全部売って思い切り遊んで心残りのないようにという事なのだ。私は適当な値段で売り捌き、手数料を貰うので、知らず知らずのうちに懐具合は豊かになった。数が多くなって、売るのに時間がかかるようになると「手数料を奮発するから、優先的に売ってくれ」と言う者が多くなって忙しかったが、現金を沢山持って戦死したら笑い者になると心配になった。内地へ送金する事は公にできないし、チチハルで使い果たしてしまわなければならない。

 使う所はピー屋しかない。そこで、毎日、二、三軒もピー買いで使い果たすべく励んだ。朝外出して、夕方三人の大人(タイジン)が帰るまでの時間、隊へ寄って依頼された品物を街の飲食店で売る。どんな品物でも意外に高く売れた。それから、三人の大人の買い物をすれば、日課は終わったようなもので、時間は充分にあるので、二軒、三軒とピー買いする毎日が続いた。夕食後、大人達が私服で外出する。彼らも私と同じ考えでよく励んでいるようだ。

 大人達がいないと何もする事がないので、管理人室に当番兵が集まって雑談するのも楽しかった。管理人は愛媛県出身の女性で五十歳位のやせた眼鏡の人だ。元芸者とかで、一人娘の谷川スミ子さんは美人で南大営高女の生徒だ。こんな北満へ母娘二人で来たのは、何か理由があるだろうが、そういう身の上話は一切しない。馬鹿話で大笑いして時間を過す。敗色濃厚な戦局、日本はどうなる、自分達はどうなると思うと、笑っていられるのは今のうちだ。九中隊から来ている眼鏡で出っ歯でユーモア溢れる顔の渡辺上等兵がいつも笑わせ役だが、どこか淋しさを感じさせる時もあった。いつものように隊へ連絡へ行くと、三年兵の吉原春一郎上等兵が私を内務班の隅へ呼んで、「松本、一生の頼みだ。聞いてくれ」と芝居がかった言い方で、「第二慰安所に市丸というピーがいて、大分前に結婚の約東をした。今春満期になったら、現地除隊してスイートホームを夢みていたが、動員下令になって南方へ行く事になった。しかし、必ずチチハルへ戻って結婚する決意でいる。私物が入ったこのトランクを彼女に渡してくれ。中に手紙も入っているが、彼女は読めないから読んでやってくれ」と言う。外出自由の私には簡単な事で引き受けたが、一歳年上のこの男は考えが甘いのか、純情なのか、私には理解できなかった。「本当に彼女を信じていいんですか」「彼女は絶対だ。堅く約束したのだ」恋は盲目とはこういうのを言うのだ。こんな恋が成就するはずがない。南方で戦死する確率も高い。朝鮮ピーに私物を全部進呈するよりも、両親や兄弟に送る方がよいと私は思った。もっとも、その頃は送った物が目的地に着く事が少なく、着いたとしても中味は相当抜かれる時代だった。私もアルバムと恩賜のたばこ以外は抜かれた。上官に報告しようかとも思ったが、黙って彼の言う通りにした。明日をも知れぬ我々の生命だ。私が悪人なら、トランクをピーに渡さず猫婆もできるのだが、翌朝早々に用事を済ませてトランクを運んだ。

 まだ九時前で慰安所は静かだ。泊りの客が帰ってやっと一休みの時間だから、皆寝ているのだ。出入りは自由にできるが、入口近くのベンチに腰掛けて待つ事にした。間もなくピーが一人出てきた。トイレへ行って来たようで、乱れた姿は見られたものではない。「アンタ何サ」「市丸いるか」「アンタ市丸のスーチャン。市丸はゆうべお茶ひいたよ」丁度よかったというように奥へ入って行った。私もついて入った。薄暗い奥の方に市丸の部屋はあった。中へ入ると、眠っていたのか、彼女は機嫌が悪い。面倒くさそうに起きて、「何サ」「吉原知ってるか」「うん」手を出して料金を催促する。私はここへ来るまではそんな気は全くなかった。商売女とはいえ、戦友が結婚しようとしている女性とは道義上許されないだろう。しかし、吉原は「市丸と寝てもよい」と言った。市丸がうるさく手を出すので料金を払うと、私の服を脱がせようとする。「待て、手紙がある。読んでから」と言うと、「そんなの後でいい」吉原は問題にされていない。終わって、「朝はいいな」と平然と言う彼女の横顔を見て、こんなピーもいるんだなあと私は意外に思った。このピーは仕事を楽しんでいるのだ。私が手紙を読んでいる間も、聞いているのか感動した様子もない。彼女を恋慕する吉原の純情な心情が切々と文面に溢れて、私は涙声になっているのに、この女は何も感じていない。

 私の予想は当たってしまった。トランクをあけると、時計などの貴重品や彼の想い出の品が沢山入っていた。こんな女に与えないで故郷へ送るべきだと更に思った。宝木寮に隠そうかとも思ったが、私が横領した事になるから、残念だが、ここに置くより仕方がない。

 翌日、吉原に報告に行ったが、とても真実は言えなかった。「彼女は泣いて無事除隊を祈っていると言いました。本当にかわいい人ですね」と心にもない事を言った。吉原は眼を輝かせて、「そうか、ご苦労さん。遊んだか。優しくてよかったろう」と言う。「とんでもない。上等兵殿が結婚しようという女性とはそんな気にはなりません。他のピーと遊んで来ました」と私はうそをついた。彼はその後市丸と会う事もなく、南方で戦死してしまった。

 私のピー屋通いは激然となり、連日狂ったように数軒のピー屋に出入りした。南方へ行けば戦死するのだから、軍人なら誰でも思う事だが、悪い事と意識しながら自分を止める事ができない。

 悪い事はいつまでも続くものでなく、その報いが来た。足のリンパ腺が痛み出した。昔、大人達が言っていたヨコネ(軟性下疳)だと直感した。こうなる事は覚悟の上だったが、重大な計算違いだった。突撃一番使用を怠ったし、南下する時期を計算していなかった。入院手術は簡単だろうが、南下する時残留させられ、転属となるだろう。転属はいやだ。初年兵の時から苦楽を共にした戦友達との永遠の別れになる。知らない部隊へ行けば、初年兵同様の扱いをされるだろう。転属するくらいなら、自殺する方がましだ。だが、自殺は過去に二度失敗している。又未遂になるだろう。それでは尚更悪い結果になる。

 悩んでばかりいても解決しない。最善の方法を考えなければならない。衛生兵に相談する事にした。海軍では素人が切開して海に投げ込み、泳いでいるうちに海水で洗浄されて治ると聞いたが、そんな荒療治ができるのは金子兵長殿しかいない。親切だが、三年兵で頼みにくいし、彼は真面目だから、上官に報告するだろう。駄目だ。同年兵には衛生兵はいない。初年兵の小室ではまだ一人前の衛生兵になってない。機関銃の佐藤上等兵は隊は違うが同年兵で、宇都宮以来同じ兵舎で、中隊に合併したり独立したりで、親しくはないが知らない仲ではない。彼しかいない。

 意を決して、彼を陣営具倉庫へ呼んで全てを打ち明けた。すると、彼は真剣に対策を考えてくれた。「貴公は大隊砲だが、俺は以前からいい奴だと思っていた。貴公のためならやってやろう。切開が最良だが、出動に間に合わない。散らすべきだ。俺は薬を手に入れる事ができない。チチハルの薬局から多量の薬を買って定量より多く使用してみよう。アルバジル、テラポール、ドイツ製のポレオン。飲み薬でも注射液でもよい。注射は俺がしてやる」

 私は直ちに薬捜しに直行した。街中の薬局を廻ったがなかなか薬を買えない。懸命に歩き廻った。すでに腰を少し曲げないと歩けない状態に悪化していたが、一日中かかって注射液五本、飲み薬若干を買えた。佐藤は陣営具倉庫で誰にも知られないように毎日注射をしてくれた。飲み薬を一日数回飲んだ。そして、毎日街中を腰を曲げて薬を求めて歩き廻わった。アルバジル一円、テラポール八十銭、ポレオン五円だ。普通の兵隊ではポレオン一本買えないのだが、ブロー力ーで稼いでいるので、資金は充分ある。一週間程で効果が出てきた。ずきずき痛んだのが、押しても痛くない。佐藤は「散り始めたようだが、まだ油断はできない。とにかく、薬を続けろ。副作用は気にするな」と、真剣だ。もちろん、謝礼は毎日欠かさなかった。数日後、佐藤は「完治した。治療は止める」と宣言した。私は思わず万歳を叫んで、「しーっ」と佐藤に注意された。

 昭和十九年三月十三日、二年近く駐屯したチチハルと別れる日がきた。谷川母娘とも短い間だったが、お別れだ。南大営近くの引き込み線から貨車に乗って、又不自由な旅だ。貨車から数メートル離れて数名の兵隊がいる中に小林好夫が、ほこりだらけの顔でしゃがんで私達を見送っているようだ。遊び上手で、彼にいろんな遊びを数えてもらったっけ。補充兵の彼は満州に残るのだろうか。周水子に残った栢島達、私が教育したロートル初年兵は今頃何をしているだろう。私達の行き先は大連なので、もしかしたら会えるかもしれない。眼前には馬占山高地の高い塔が見える。野中と苦労した事が思い出される。列車は南に向かって動き出した。小林は私を見なかったろう。見れば陽気な彼がおとなしく悲しそうな顔でしゃがんでいるはずがなく、大声で何か叫ぶだろう。彼とも永久の別れだ。十五日朝、南東州(引用者注:関東州の誤り)と満州の国境境界線を通過した。周水子の兵舎は見えないかと思ったが、暗い貨車の中からは何も見えない。

 間もなく大連に着いた。ここで意外な命令が出た。階級章を外せ、軍服のボタンはひとつ以上外せ、できるだけだらしない態度をしろと言う。大連には兵站部隊しか駐屯していないから。若くて元気な現役兵の戦闘部隊は目立つ。大連には各国のスパイが暗躍している。だから、防諜上、全員軍属スタイルで行動するのだ。

 しかし、軍人精神に戻るのは早かった。旅順で敵前上陸の演習、南方での行動の教育があり、その間に勤務もある。馬はチチハルに全部残留で馬舎当番がないので、すごく楽だ。南方はどこへ行くか不明だが、馬を使わない作戦であることははっきりしている。そのため、私が衛兵勤務をする事になった。

 衛兵司令衛舎係、歩哨係、歩哨全てが歩兵で重火器からは私一人だし、本格的な衛兵勤務は初めてだ。馬舎の一般守則、特別守則は暗記しているが、衛兵の守則は知らない。衛兵所内で急いで暗記するしかない。勤務割を聞いて驚いた。私が軍旗立哨なのだ。軍旗や表門立哨は重要な部門だ。チチハルで一度立哨した事があったが、重火器の私はせいぜい裏門か弾薬庫の動哨くらいだろうと思っていた。しかし、命令は絶対服従で、私は軍旗立哨についた。チチハルでは連隊本部内の軍旗安置所の前に立ったことがあったが、ここは野営なので、・・・(P168-179)

 

・・・・・・・

(※松本はパラオ行きの船に乗る)

 深夜二時頃、乗船命令が出た。船腹に麻でできた大きな網が降ろされ、それを登って乗船する。タラップを登るのも大変だと思っていたのに、九十度のネットを数十キロの完全軍装で登るのだから重労働だ。私はなんとか自力で登った。下を見ると、どうしても登れない奴を軽装の下士官達が下から押し上げたり、上から引張ったりしている。酒を沢山持った者ほど苦労している。私は軽いたばこが主だから速く登れたのだ。乗船は朝までかかって完了した。

 甲板上は箱や籠で足の踏み場もない。私達は直ちに船倉に入れられた。その深さに驚いた。ビルの十階分ある。数千人が三年間戦うための物資が入っているのだ。トヨタの新品トラックが何台も入っている。大砲も全部積んだ。私の専門だから数えてみたら、連隊砲が四門、速射砲が六門、大隊砲が六門、重機関銃三十丁以上、野砲は四門、高射砲や戦車は甲板にあった。

 船倉に入ると、異様な臭いで頭痛がした。甲板から風管で逆風しているが、ものすごい暑さだ。この船は青島へ軍馬を輸送してきたばかりだから馬の臭いだ。馬を入れた船倉に掃除もしないで人間を入れるのだからたまらない。馬糞が数力所に残っている。十畳程の場所に一個小隊六十名以上を高さ三メートルを四段にして入れるのだから、物資並みだ。しかも、完全軍装の上にがさばる救命胴衣を着け、鮫は自分より大きい物を襲わないとされているから、腰に十尺以上の晒を巻く。身体を丸くして、動く事もできない。臭い。暑い。目的地に着くまでに参ってしまうのではないか。初年兵は奥へ押し込められて、どの顔も真赤で汗だらけだ。

 しばらくして、動き出した。出航だ。昭和十九年三月二十八日午前四時、満州を離れた。あまりの暑さ苦しさに、私は思い切って船倉を出てタラップを登った。トイレへでも行くと思ったのか、誰も注意しない。甲板に出ても、芋を洗うような人と物資だ。船員がバナナやりんごの籠を海に捨てている。貴重な食糧なのだが、積み過ぎで船足が遅くなるし、通路の邪魔でいざという時行動しにくいので、仕方なく処理しているらしい。数百か数千か、すごい量の籠を捨てている。このバナナやりんごを満人に与えたら、どんなに喜ぶだろうと思った。

 狭い甲板を見て歩いた。高射砲が砲ロを上に向けて射撃態勢にしてある。竹で組んだ救命筏がいたる所にある。救命ボートでは数千の将兵には足りないからだ。戦車やトラックも若干ある。その他に大小の箱が無数に置いてある。船の中央部に行くと、炊事場の近くなのか、二人の船員がねじり八巻で沢庵を切っている。この二人は航海中沢庵切り以外の仕事をしない。数千の乗員が一人二切れずつでもすごい量なので、二人でいくら頑張って切っても間に合わないのだ。夜がすっかり明けて、磁石を見ると船は北進している。朝鮮の鎮海湾に向かっているのだ。そこで輸送船四、油槽船一の両翼を駆逐艦二ずつが護衛について計九隻で船団を編成して南下する事が判った。

 そして、四日目の朝、門司に寄港した。運動不足解消のために、上陸して岸壁で体操する事になったが、私はさぽって上陸しない。この頃になると、でたらめで人員をよく調べないのでばれなかった。門司を出港して瀬戸内海に入った。二年前の四月、宇品から逆の方向へ航行した時の事が、寒かった事、広島商人の悪徳ぶりなど思い出された。

 太平洋に出ると、波が荒くなってピッチング(縦揺れ)がひどくなったが、船の中央部にいればそんなに船酔いしない。それでもかなり参っている者もいた。日本沿岸の沖を航行すると、はるかに陸地が見える。「名古屋だ」「静岡だ」と騒いでいるうちに、横浜に寄港した。門司でも横浜でも、真新しい軍服のひとつ星が大勢いて、その都度三年兵達は「俺達の交代要員だ。俺達はここで除隊だ」と喜んでいたが、期待外れだった。「あれが、山下公園だ」「あすこが俺の生まれた所だ」と賑やかだ。ここでも運動のため上陸したが、私は上陸しなかった。

 横浜から千葉県の館山に着いた。ここで、隊長が任務、目的地などの説明をした。中隊編成になって中隊長は加藤保中尉だ。士官候補生で、井上少尉の前任の連隊旗手だった小松恭一郎中尉と同期生だが、小松中尉より優秀と言われていながら幼年学校出身でないので、小松中尉より序列が下だ。埼玉県行田出身で、ぽちゃぽちゃした丸顔はいかにも育ちの良さがうかがわれる。行田は足袋の名産地で、彼も足袋屋の息子だ。 関東軍では我が大隊砲は砲二門で独立小隊の時が多かったが、速射砲中隊が三つに分かれて各大隊砲と合併して中隊編成になり、我が中隊は第三歩砲砲中隊となった。馬がいないから攻撃はできない。守備専門と予想される。しかし、我々は攻撃一点ばりの教育を受けており、守備の教育は受けていない。歩砲操典、その他の典範令、どれを見ても攻撃を基本にした事しか書いていない。この点不安だが、どうせ戦死するのだから、どうでもいい。

 中隊長は「我々は桃太郎である。お前達は犬、猿、雉である。これからパラオという鬼が島へ鬼退治に行く。パラオには米奴と言う悪い鬼がいる。一殺、二殺、三オー殺して、宝物を一杯持って皆で父母が待つ日本へ元気で帰る」と、力説する。

 そして、船団は南下した。館山からパラオまで一週間の予定だ。これからは広い太平洋の真中に向かって行くのだ。制海権、制空権は敵に握られている。敵の真直中に進行して行くのだ。無事パラオに着けるのだろうか。先行の輸送船団は全て太平洋の藻屑と化しているのだが、常に死を決意しているからか、別に恐怖感はない。

 全身が痒くて困った事になった。チチハルからずっと飲み続けているあの薬で湿疹ができたのだ。船内の牛肉の缶詰めを盗んで食べて蕁麻疹もできたらしい。大連で二、三回入浴したきりだから虱がわいている。二十四時間で最も敵襲が少ないとされている午前十時から一時間だけ裸が許可になるが、その他の二十三時間は完全軍装でいなければならないので、いくら痒くても掻く事ができない。暑さと不潔で虱に身体中を完全に占領された。もぞもぞ動く虱に手も足も出ない。鮫よけに支給された晒一丈を切って褌を作り、虱だらけの古い褌は海中に捨てた。虱め、太平洋の塩水を飲んでくたばれと思った。それを毎日やるので、晒はたちまち短くなった。船内を捜し回って晒が沢山ある所を発見した。適当に失敬してはせっせと褌を作った。上半身はどうにもならないが、下半身がもぞもぞするとすぐ取り替えた。しかし、その場所が問題で、便所は数千人が使用するので、甲板に板を渡してその前につかまる垂木がある。船が揺れるので垂木につかってふんばるのだ。その状態で、しかも完全軍装で褌を取り替えるのは神技だ。便所はいつも満員で、船腹に黄色い物体がいつも付いていて、それを魚群が追う。

 私に衛兵勤務の命令が出た。任務は船尾で敵潜水艦を監視する。船体を六つに分けて、第一次の方向、第二次の方向と言う。肉眼と眼鏡で見張るが、波が荒くてよく見えない。ものすごいピッチングで、ビルの十階くらい上下する。特に下る時は気持ちが悪い。あちこちで衛兵がげっげっと吐いている。とても任務どころではない。いくら吐いても、無理に食事はさせられる。わずかでも栄養を吸収させるためには、そうやって馴れるしかないのだ。夜になって、ますます視界が悪くなった。暗い時が最も危険なので、皆懸命に海面を見る。「六次の方向、敵潜水艦」という声が聞こえた。直ちに船尾からドラム缶と同じ型の爆雷が無数に投下される。あんなに投下して爆雷がなくなるのではと心配になるくらいだ。数分後、水面に多量の油が浮いてきたので、敵潜水艦を魚雷発射前に撃沈したと言うが、海中のでき事だから確認できない。

 この頃から敵襲は激しくなった。夜は何度も非常呼集で甲板に集合し、竹の筏に乗る。本当に敵襲なのか演習なのか判らない。磁石の針は南を指すべきなのに、東西南北どこでも指すようになった。敵の機動部隊に追われて逃げ廻っているからだ。四方から攻撃されて魚雷を避けるため、船は常にコの字航行を続けている。私達の命は風前の灯だ。もう、じたばたしてもどうにもならない。予定の一週間を過ぎてもパラオはまだまだ遠いようだ。太平洋の真中を敵に追われてぐるぐる廻っているだけなのだ。

 そのうちに重要な問題が起こった。水だ。太平洋にこんなに水があるのに、水不足なのだ。特にこの辺は塩分が多くて飲料水にならない。洗濯しようにも石鹸を受けつけず、ねちねちするだけだ。だから、一度一個分隊に八升樽一杯の真水が支給され身体を洗ったが、樽ひとつで大勢が石鹼を使うのだから、泡だらけでかえって不快だった。この船は一万トン級だから多量の荷を積んだ他に、水を一万トン積んであるが、数千名では一週間が限度だ。やむなく北上して、小笠諸島の父島に入港した。猛烈な敵の攻撃を避るためもあったが、水の補給だ。

 ところが、赤痢が発生して水の補給ができない。これから何日かかるか判らないが、敵と闘いながら、水とも闘わなければならない。飲み水は一人水筒一本、飯は二食。これで乗り切るしかない。かんかん照りつける太陽の下で、水筒一本の水を貰うために、完全軍装で何時間も行列し、夜は敵襲で満足に眠れない。もう、暑い狭いは問題ではない。命がいつまでもつかだ。一日水筒一本の水では、南方洋上ではとても無理だ。病人が出るのは避けられない。

 父島を二、三日後に出港して間もなく、ついに死者が出た。何中隊の誰かと聞くのもわずらわしいくらい疲れきっているが、命令だから仕方なく甲板上で葬式だ。鎖の錘をつけた棺箱が海中に投下された。棺箱まで用意してあるのに驚いた。菓子、花も投下され、連隊長が弔辞を読んでいる。明日は我が身かも知れないと思うと、センチな気分にもなれない。太陽がぎらぎら照る下での儀式だから、ふらふらして倒れそうだ。 冷たい水が飲みたい。いっそ早くボカチンをくらって鮫の餌食になった方がどんなに楽だろうと思った。そんな私に、又衛兵勤務の命令が出た。今度は中央部にある船員室、それも高級船員室の警備だ。銃を持って巡察する。事務長室、機関長室、舵夫長室、水夫長室、船長室を巡回して歩く。時々、各室のドアが開くので、「異常ありません」と報告する。

 その時、中を見て驚いた。水不足で全員が苦しんでいるのに、シャワーの水をどんどん流して浴びている。狭い船倉で兵隊が苦しんでいるのに、広い部屋に一人で、ソファや椅子や豪華な調度品を置いて、上等な洋酒を飲んですごい肉料理を食べている。板子一枚下は地獄の生活だからマドロスは優遇されるとは言え、平時ではないのだ。同じ船内でこんな差別があるとはひどい。高級船員は将校待遇なのだから、いくら憤慨しても一兵士の私にはどうにもならない。

 そんな私をかわいそうに思ったのか、舵夫長が私を呼んで赤い液体の入ったグラスを持って来て「兵隊さん、ご苦労やね。ま、一杯やりいな」と言った。私は咽喉が渇ききっていたので、アルコールだろうが何だろうが飲んでやろうと思ったのだが、意に反して「服務中ですから」と辞退した。人の良さそうなはげ頭で赤ら顔の舵夫長は「軽い酒だ。酔わへんから飲み」と、四国弁でソフトに言うので、私は一気に飲んだ。甘かった。咽喉を通る時の感じは表現できないほどの味だった。厚かましく、水も所望しようと思ったが、プライドが邪魔して言えなかった。狭い船倉やぎらぎらの太陽の下で甲板にいるより、衛兵勤務の方が楽だった。

 我が船から死者一名だが、病人はかなり出ている。他の船はどうなんだろうと考えていたら、明朝パラオ本島の湾内に強行突入すると会報が出た。今まで何回もパラオ本島に近づいたが、敵機動部隊が防害して入港できなかった。しかし、この状態が長引けば、水はなくなるし、兵隊の体力も限界にきている。じり貧になるより、一か八か、あるだけの爆雷を投下しつつ突入するのだ。

 翌朝、湾内突入は成功した。しかし、岸壁は空襲で崩壊し使用不能なので、船団はマラカル沖に投錨した。湾内に入ったのだから、もう安心だ。昭和十八年秋から始まったこの作戦で、成功したのは我が船団だけで、他の船団はことごとく撃沈、全滅している。船団の指導者が優秀だったのか、運も良かったのだろう。昭和十九年四月二十四日早朝であった。艀がどんどん近づいて来た。上陸できる。水を腹一杯飲める。水浴びもできる。

 しかし、無情にも、速射砲から来た相馬準尉に命令を伝達された。グレン屋出身の私が中隊からただ一人船内に残って陸揚げ作業をしなければならない。数千の将兵が上陸した後の船内は淋しいくらいの少人数となり、主に工兵が残った。水は飲み放題、ご馳走もたらふく食べられる。船員なみの給与だ。残った方がよかったようだ。

 作業はうまく行かない。私のは天井走行グレンだが、船のはウィンチだ。バランスをとるのがむづかしい。船倉から吊り上げる野砲の大きな弾薬を、船腹にぶつけて、艀の連中が悲鳴を上げた。海中に落下した弾薬は鉄の塊だが、木製の箱に入っているのでなかなか沈まないが、引き上げない。米は何回も落としたが、引き上げた。次第に私の運転は上手になったが、大砲、戦車、トラックのような大物はベテランの船員が運転した。その間、私は裸で昼寝をし、航海中の苦しさはうそのように気楽だ。(P184-193)

 

・・・・・・・

 村田班長は連隊本部へ栄転し、その後一度も会っていない。夜、就床したが、とにかく暑い。静かに寝ていても汗がだらだら出る。島の生活が長い軍属は「今夜は寒いな」と、毛布にくるまっている。こんなに暑いのに変だと思って訊くと、「我々も来た時は暑くてどうしようもなかったが、二年目から暑さを感じないで夜は寒い時もある。そのうち慣れますよ」と言う。それでも、私はぐっすり眠った。

 翌日、我々の任務や部隊が伝達された。十四師団の兵団名は照兵団で、我が五十九連隊は照七七六七部隊(関南東軍(※引用者注:「関東軍」の誤り)の時は満州第二一九部隊)、水戸の二連隊は満州第十三部隊が照七七一三部隊、高崎十五連隊は満州第四六部隊が照七七五九部隊と部隊名が変わった。十四師団には長野県の松本五十連隊も所属していたが、編成替えで他の師団に編入された。部隊配置は一番重要とされている。大型飛行機が利用可能なペリリュー島に水戸の連隊と高崎十五連隊の一個大隊計四個大隊と海軍が若干。アンガウル島に我が宇都宮五十九連隊が守備隊に、高崎に二個大隊は予備隊としてパラオ本島に残った。軍司令部の作戦は第一線アンガウル島、第二線ペリリュー島。一番南端のアンガウル島に米軍は上陸し、パラオ本島は攻撃してこないと想定していた。サンゴの化石であるリーフでできた群島なので、リーフが邪魔で艦船が島に近づけないから米軍の上陸作戦は不可能であると、東條以下の大本営の将軍達の指示で、今まで兵砧基地として戦闘部隊は全く配置していなかった。自然の要塞だと信じていたのだ。太平洋の防波堤だから、この群島が占領されない限り本土は攻撃されないと考えていたようだ。第一線のアンガウル島で敵を撃退できると甘く考えていたのだ。昔から十四師団に変な伝統があり、毎年行われる剣道、柔道、相撲、射撃などの大会で一位はいつも水戸二連隊、最下位は高崎十五連隊と決まっていた。水戸武士の血を引き海で鍛えた茨城男児は心身共に健全で、何をやらせても優秀であり、海がなく米も満足にできない二等県の群馬は空っ風と栄養不足で肺病患者が多く、全てに劣っていた。師団幹部はこの事情をよく理解して守備配置を決めたのだろう。(P198-199)

(※以下、アンガウル島・パラオ本島での生活や戦闘の様子が詳細に描かれている。ただし、慰安所や慰安婦に関する記述は見当たらなかった)

 

・・・・・・・

 顔見たさに必死に生きて帰って来たのに、全身の力が抜けてゆく。私はその場に座ったまま、放心状態でしばらく動けなかった。

 「本当にご苦労なこって」と、老人が言う。この老夫婦は二階に間借りして闇屋をしている。しばらく沈黙が続いたが、皆笑顔になった。

 「良かった。良かった。もう、おめえは駄目だ、どこかで戦死して遺骨も帰らないと思ってあきらめていたんだよ。よく帰った。いい正月になるぞ。あんちゃんが魚や色んなご馳走を仕入れて来たし」(P340)

 

以上、松本正嘉「わが太平洋戦記」(2001年、私家版、国立国会図書館所蔵)より引用しました。