アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編 西野留美子・金富子 責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅱ―南・北・在日コリア編 下』(2010年、明石書店)より

 

女工だった私がだまされて「慰安婦」に ―張秀月(チャンスウォル)―
●貧しさが罪になり
 貧しい小作農の次女として生まれた私は、苦しい家計を助けるために、一四歳のときから工場に行って女工として働いた。その時私が通った工場は、西平壌靴工場だったが、日本人が経営する工場で、監督も全員日本人だった。
 朝から夜遅くまで休むまもなく働いたが、手にした労賃は、微々たるものだった。こうした状態なので家の暮らしはよくならず、ずっと苦しいばかりだった。
 私が一七歳になった一九四一年九月のある日、工場の日本人監督が私を呼ぶと、一ヶ月働いて三ヶ月暮らせるくらい稼げるいい働き口があるが、いかないかと言った。いつも貧しさにあえいでいた私は、お金をたくさん稼いで、家計の足しにしようと考え、彼に付いて行った。翌日日本人監督にしたがい、平壌駅に行ってみると、そこにはすでに私のような「朝鮮の娘」七人が来ていた。
 いくらもたたないで、警察官が私たちを汽車に乗せると、前後に立って、私たちの一挙一動を監視し、しまいには便所に行くときも付いて来た。
 騙されるのではないかという考えが強くなっていき、逃げようと考えてもみたが、警察の看視が厳しくてそうすることができなかった。
 数日かかって着いたところは中国のチチハルという所だった。警察は私たちを、ある横長の一階建ての建物に連れて行ったが、その家はまるで共同便所のように小さい部屋が並んでいた。その時になっても、私はその家は合宿所で、これからここで寝起きしながら工場に通うのだとばかり思っていた。そこにはすでに十五人の娘たちが来ていた。
 警察は私たちをある日本人に引き渡したが、あとで知ったのだが、その男が「慰安所」の主人だった。彼は私たちに部屋を割り当て、日本の名前をつけたのだった。私には五号室が割り当てられ、名前も「テルチョ」(テルヨ?)と呼ばれるようになった。部屋の大きさは二人がやっと横になれる程度で、畳が敷かれていて、各部屋ごとに番号と娘たちの名前が付いていた。
 私が入れられた部屋が、これから恥辱的な性奴隷生活を強要される、監獄のような場所だとは、夢にも考えられなかった私は、お金をたくさん稼いで、家族の元に帰るという天真爛漫な夢を見て、その晩を過ごした。

●四年間の地獄の生活
 翌日の朝、廊下がざわめく音がしたとおもったら、突然扉を開けて日本軍兵士が入ってきたのだった。その軍人は入ってくるなり私に服を脱げと強迫した。私が応じないと、そいつは刀を抜いて私の首に当て、言うことを聞かないと殺すぞというのだった。そして私の服と靴を脱ぎ捨てて、獣のように襲い掛かってきた。その時になって私はようやく、騙されて永遠に助からない落とし穴に落とされたことを悟った。いくら声を上げて泣き叫び、もがいても、だれも私を助けてはくれなかった。
 その日から私は、毎日十五人~二〇人あまりの日本軍兵士を相手に恥辱的な性奴隷生活を強要された。昼は兵士が押し寄せ、夜は将校を相手にしなければならなかったが、日曜日には昼食をとる暇もなく三〇~四〇人余りの兵士を相手にしなければならなかった。そればかりか、兵士は自分の獣欲を満たしたあと、服を着せ、靴を履かせ、ゲートルを巻くこともさせた。
 ある時は、自分の気に入るようにゲートルを巻けていないと、ひどく殴ったり蹴ったりした。やつらは「慰安婦」が生理の時も関係なく飛びかかってきたが、性行為をしたあとになって汚いと騒ぎたてたりした。
 そうして少しでも反抗する振りを見せると、やたらめったらに暴行を加えたり、日本人の主人の仕打ちもひどくなった。
●生きのびたものの
 地獄のような「慰安所」で四年間「慰安婦」生活をする間、たくさんの「慰安婦」の女たちが鞭をうたれて死に、病気で死に、障害者になるのを見て、私もいつかはあのようにして死んでしまうのだという考えが、頭から離れなかった。
 一九四五年六月、私はある日本人将校に呼ばれ、将校の宿所に行って相手をすることになった。そのころ、少し地位の高い将校たちは、お気に入りの「慰安婦」を自分の宿所に連れて行って遊び、一晩中酒浸りになることがあった。その日も、将校らの宿所に連れて行かれて酒の相手をしていたが、将校が泥酔して意識が朦朧としていた。それで私は便所に行ってくると言って、そっと宿所を抜け出し、わき目も振らずに逃げた。

 やつらの元から逃げ出したのだったが、中国語もよくわからず、地理も分からない私は、山中で山菜を採って食べたり、民家でご飯を恵んでもらったりして、行く当てもなくさまよい歩いた。そうしている間に、偶然親切な朝鮮人に会い、その人に助けてもらって平壌行きの汽車に乗ることができたのだった。平壌に帰り、懐かしい両親と兄弟と再開したが、体を汚されてきたとはとても言えず、出稼ぎに行ったが苦労するだけして稼げなかったと話した。それでも家族は、生きて帰れただけでもよかったと言って喜んでくれた。
 解放後、私は日本のやつらに汚されたこの体で、どうして朝鮮人男性と結婚できようかと、良心の呵責で結婚しなかった。どうして結婚しようとしないのかと、家族は気をもんで言い争いまでしたが、私の心の中は血の涙が流れていた。親にも言えない心の苦痛を、一人で黙って胸にしまっておかなければならず、朝鮮女性は若いころは吸わないタバコも吸うようになり、おかしな性格の人間になってしまった。私とて、どうして夫に愛され、子どもを産み、幸せな暮らしをしたくないだろうか。私が一生のうちで一番うらやましかったのは、日曜日や祝日に子どもや孫を連れて幸せそうに過ごす人たちの姿だった。
 日帝(の植民地)でなければ、私もあのような和やかや家族を持ち、幸せに暮らすことができたであろう、そう考えると声を上げて全身を震わせて慟哭したい気持ちだ。しかし日本はいまだに私たち被害者を侮辱し、正しく謝罪し補償をしていない。私は日本政府に、万が一日本人女性がこのような仕打ちを受けたとしたら、どうするかと聞きたい。
 日本政府は日本軍性奴隷問題を解決せずには、決してこのまま済まされないだろう。
(出典:朝鮮 日本軍「慰安婦」・強制連行被害者補償対策委員会)

 

以上、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編 西野留美子・金富子 責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅱ―南・北・在日コリア編 下』(2010年、明石書店)P132~p136より引用しました。