舩坂弘「秘話パラオ戦記 玉砕戦の孤島に大義はなかった」(2000年、光人社NF文庫)より

(※舩坂弘さんは祖父と同じく宇都宮歩兵第59連隊所属。昭和19年4月、パラオ転進のため父島に寄港する)
 

  当時を回想すれば、われわれは陸軍だから海の藻屑になりたくない、どうあっても陸上で、しかも戦ってから死にたい、と天に祈っていた。
 四月十日、かろうじて父島の二見港に寄港することができた。パラオの掃海が完了するのを待って、ここに一週間待機していた。
 当時の内南洋は、日本軍にとって無防備に近かった。われわれがニ見港に寄港したのも、そのとき、米軍がサイパン、テニアン、グアム島などに猛爆撃をくりかえしていたためである。
 大本営では、“米軍の内南洋各島への上陸作戦は秋ごろであろう”と予想していた。ところが、米軍はすでに内地と内南洋を結ぶ航路上に潜水艦を出没させ、陸軍の南方派遣船団を狙撃していた。そのために各輸送船団は狙われ、数十隻の船が撃沈されて、数万の陸軍を乗せた船団が悲惨にも海底の藻屑と消えていた。たとえばグアム島に急行した第二十九師団第十八連隊などもそうであった。全員が海中に投げ出され、ほとんどの者が遭難し、わずかの丸裸部隊がやっとサイパン島に上陸する有様だった。
 一週間も待機したにもかかわらず、パラオから“掃海完了”の入電はなかった。師団長はここで敵潜水艦の危険にさらされているより、パラオ入港を強行せんと決意し、四月十八日、決死の船団は二見港を出港した。虎の尾を踏むような道中だったが、四月二十三日、どうにかぶじに、パラオ本島、ペリリュー島、アンガウル島への基点であるマラカル島に入港し、コロール島に到着した。大連を出帆してからちょうど一ヶ月目であった。当時の海上輸送としては、めずらしく被害がなかったために、師団のこの“偉業”は高く評価された。(P24~P25より)

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 とうじ南洋群島の首都、パラオ、コロール島の一隅には、男性の心を魅く色街があった。鶴の屋、徳の家、春光館など、あわせて二百人くらいの売春婦がいた。もちろん私のいたアンガウル島やペリリュー島には、慰安所などもあろうはずはない。かりにあったとしても、日夜の区別なく、陣地構築に没頭する兵たちにとっては、そんな時間的な余裕やエネルギーはひるまの労働で消耗され尽くしていて、紅灯に足を向ける気持にすらなれなかったであろう。(P106より)

 以上、舩坂弘「秘話パラオ戦記 玉砕戦の孤島に大義はなかった」(2000年、光人社NF文庫)より引用しました。