岡野工治さんの証言

※岡野工治さんは1927年新潟県生まれ。43年3月新潟県立能生(のう)水産学校4年卒業(本来5年間のところ、学徒動員政策のため)。同年10月学徒として陸軍航空隊柏教育隊(千葉県)に入隊。44年3月から旧満州・牡丹江第39飛行隊をはじめとして、佳木斯(ジャムス)第4飛行隊、公主嶺(コウシュレイ)教育飛行隊、チチハル42教育飛行隊に配属。45年8月14日にハルピン飛行場に撤退、翌日終戦。同年10月シベリア・ハバロフスク州に抑留される。伐採、線路工事、道路補修に従事したが、その後細菌感染で野戦病院に入院。快復後はそのまま病院の看護士となった。49年6月帰国。1964年東京新聞社へ入社し、教育文化部などの記者として勤務。83年同社退職。その後全国を周り、シベリア抑留体験を語っている。


元日本兵取材報告 「隼」飛行兵                                        auther: 神 直子

 21日、都内の喫茶店にて元日本陸軍航空兵の岡野工治さんにお話を伺いました。

 岡野さんは新潟の水産高校在学中に航空教育隊に入り、約半年間の訓練を受けて昭和19(1944)年9月、旧満州(中国東北部)のチチハルの飛行場にパイロットとして配属されましたが、その後も訓練に明け暮れる毎日で、一度も出撃することなく終戦を迎えました。

 従って、インタヴュウの話題は、訓練の厳しさとソ連での抑留生活に集まりました。

 特攻隊員である岡野さんが受けた訓練はとても厳しいもので、急降下や緊急離着陸を繰り返して練習する中で、死者も出るほどであったといいます。

 訓練の他にも事あるごとに走らされ、足腰が鍛えられたそうです。その賜物でしょうか。85歳とは思えない足取りで歩かれる姿は健康そのものでした。

 そんな厳しい訓練に明け暮れる中で、楽しかったことは外出。地元の店をのぞき込んで冷やかすことだったそうです。

 慰安所もあり、その前にはいつも兵士たちが少ない時で5、6人、多いときには14、5人が列を成して順番を待っていたそうです。岡野さんは利用することはなかったのであくまでも聞いた話とのことですが、慰安婦の中には16歳くらいの少女もいたとのこと。そういった少女は当然ながら自分から喜んで慰安婦になった感じはなく、暗い雰囲気なので兵士たちには人気がありませんでした。「恐らく強制的に連行されて来ていたんでしょうね」と岡野さんは言われました。

 対ソ戦に備えて配備されていましたが、空港には37機の「隼(戦闘機)」しかなく、岡野さんを含む多くのパイロットは、歩兵として戦う準備をしました。

 ソ連軍が攻めてきた8月9日の前日夕、司令部から「ソ連軍の攻撃に備えよ」との命令が出され、軍装を解かずに一夜を明かしました。

 翌朝、敵機が飛来して何発かの爆弾が落とされる音がして「いよいよ始まった」と覚悟を決めましたが、隼が出撃することはなく、また周辺では戦闘もなく3日が過ぎました。

 そこから急にハルピンに"転進(撤退)"。そこで武装解除されてソ連軍の捕虜となりました。

 その時、ひとりの将官(副部隊長)が捕虜になるのを善しとせず、多くの兵の前で自害。しかし、部隊長の「帰国して祖国の復興に努めよ」との声に他の将兵は冷静さを取り戻したそうです。

 岡野さんが送り込まれたのは、ハバロフスク近くのテルマという場所で、シベリア鉄道の支線作りと山林伐採作業をさせられました。厳寒の中での作業は、想像を絶する過酷な毎日となりました。テルマに抑留された約1万3千人の日本兵の内、891人が命を失ったとのことです。

 1948(昭和23)年6月、岡野さんは日本に復員しました。そして今は、「シベリア抑留体験を語る」語り部として全国を周られています。(2010年12月24日現在)


以上、 NPO法人ブリッジ・フォー・ピース(BFP)の公式ブログ より引用しました。 


戦場体験証言 岡野 工治 さん 陸軍/1943(昭和18)年10月20日 学徒招集/航空兵

シベリア抑留 私がパンを分けなかった戦友の死が胸をえぐる


 私はシベリア抑留者として四年間を経て祖国日本に帰国した。

ひとくちに言うなら、寒さと飢えと栄養失調で多くの仲間を失った当時の兵隊の平均年齢は二十三~二十四歳だったが、特に三十歳、四十歳代の兵隊は年老いた七十~八十歳代に見えた。それほど一週間くらいの激戦と、終結地までの百キロの徒歩行進で見も心も疲れ果てていた。

 さて、私は陸軍の特攻隊員で、同期生の半数、四十八機が沖縄と台湾沖で隼戦闘機もろともに自爆し、戦死していったのでした。

その後、旧満州北部のチチハルの飛行場で敗戦になり、昭和二十年十月二十三日にハバロフスク州テルマ地区の二〇五収容所に抑留されました。

さきほど話した通り、六万五千名余の抑留死亡者の三分の二、四万二千名が抑留の一年三ヶ月で亡くなり、当初、寒さと飢え、栄養失調でした。

 本日、私に与えられたのは抑留のことでの想いとのことですので、今現在でも忘れ得ない、いわば墓場まで持って行く気持ちであったことを申し述べます。

 私の生まれは新潟の山村です。秋十一月から翌年の四月まで暖を取るため、いろりに毎日薪を多く燃やすので、大量の薪を焚くので、十月中、山林に行き、四、五日かかって薪作りをするのです。父から小学校五、六年と中学生時代教えられたことが役立ちました。

シベリアの収容所では我々を管理するロシアの十五世帯の家族がいまして、薪作りの名人と言われるほどで可愛がられました。宿舎へ帰る時には、「ありがとう」「優秀作業員」と言って、一キログラムの黒パンをくれました。

 宿舎では十時には就寝となるので空腹と疲れで寝込んでしまうので、私は毛布をかぶり、黒パンを音を立てないように食べました。

それから十日後の朝六時起床に、一つ置いた隣の仲間が冷たくなって亡くなっていました。

栄養失調でした。

 私は六十四年前のその事が、罪の意識で今でも忘れ得ぬ、誰もが知らないことなのです。

その事があって、反省として私はシベリアへの遺骨収集に四回、墓参団の案内に八回、進んで参加しております。

 今思うことは、「満州侵略さえなかったら」シベリア抑留がなかったのだと。

もっと突っ込んで言うならば、戦争がなかったならと思うことしきりです。

戦争には飢えがつきもの。飢えほど人間性を失うものはない。

まったくエゴの固まりとなり、愛という人間の知性も倫理も投げ捨てるのだと私の一生のうちで、この事が大罪であり、脳裏から消え去ることはないであろう。なぜならば、六十四年前に間接殺人を犯したからです。

 したがって私は、その反省に立って日本国憲法九条、「再び戦争をしない」「人間を殺さない」「武器を作らない」「武器を持ち込ませない」「武器を輸出させない」。

これが私のシベリア抑留に思うことです。「なぜ、空腹の彼に黒パン半分を与えなかったのか?」と・・・


以上、戦場体験放映保存の会 より引用しました。