土屋芳雄 「聞き書き ある憲兵の記録」(1991年、朝日新聞出版)より

 入営して一ヶ月もたたない十二月末、早くも戦闘行動があった。夜、上官から命令が出た。「伊通県に匪賊が出たから、ただ今から、討伐に行く。皆、教えたことを守ってやれ」といった注意を受け、武装して出発した。
 土屋は、軽機関銃の担当だった。その重いこと。六キロ以上あった。そのほかに、百二十発の弾丸を腰に下げ、さらに百二十発を箱に入れて持った。片道八キロの行軍だった。「匪賊」は、「徒党を組んで出没し、殺人・略奪を事とする盗賊。匪徒。」(広辞苑)といい、「匪徒」は「暴動をなすやから」(同)とある。しかし、土屋たちにとっては、盗賊というよりも、反日分子たち、という印象が強い。今風に言えば、ゲリラ的な戦闘集団だ。自分の国を侵した者に抵抗した集団を匪賊と呼ぶことの是非はともかく、この年、十二月十日の国際連盟理事会で日本は匪賊討伐権を認められている。(※引用者注:一九三一年)ちなみに、当時国際的に、関東軍は満州鉄道沿線などにしか軍事行動を認められていなかった。しかし、匪賊討伐の名目ではより広範囲な軍事行動が許された。その権利を匪賊討伐権と呼んだ。
 地元の警察討伐隊を支援する形で、土屋ら初年兵六十人が出発した。彼らにとっての敵は、同じように武装している。どこから弾が飛んでくるかわからない。当然、緊張感で胸の痛くなる思いではなかったか、というと、どうもそうでもない。土屋は、そんな弱気どころか、むしろ、「敵とぶつかってくれればいい」と、勇んでいた。手柄をたてるチャンスでもあったからだ。
 しかし、往復十六時間かかって、追い回した匪賊はついに姿を見せなかった。この土屋らの独立守備隊といえば満州事変を起こした連中だ。戦闘は滅法強いと匪賊側は、すでに知っていた。えりに二丁の小銃をクロスさせた独立守備隊のマークは、敵に脅威を与えていた、と土屋たちは思っている。だから、逃げてしまった、と。一月にも出撃したが、ついに銃は撃たないでしまった。
 この直後に、土屋を鬼に変える儀式があった。刺突である。
 
鬼になる洗礼

 昭和七年(一九三二年)一月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から二百メートルほど離れた射撃場からさらに百メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の六十人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。
 「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、六人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて六人のうちの一人の前に立った。だれかが、「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地から来たばかりの大隊長は、人を斬ったことなどはなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。
 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だ。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるのだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、三、四メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。六十人の初年兵の中で、なぜ土屋に白羽の矢が立ったのか。土屋は、自分が最も臆病そうだから選ばれた、と当時とすれば、やや不名誉と思ったようだ。だが、どうもそうではないようだ。この上官は、栗崎中尉だ。入営当初、破れた手袋をして凍傷に苦しんでいる土屋を見つけ、自分の手袋を与えてくれた上官だ。その後も、自分のような農村出身の新兵を、何かと面倒みてくれた。土屋をトップに指名したのはむしろ「土屋ならうまくやれる。うまくやらせて名を上げさせたい」という温情ではなかったろうか。
 土屋にとっては有り難迷惑そのものであった。だが、すぐに四四式騎銃を渡された。いわゆるゴボウ剣式の古い型ではない。折りたたみ式の剣がついた新しい型の銃だった。のどがかわいた。だが、やらなければならない。上官の命令は絶対である。さらに、自分を中心にした感情、計算が短時間の間に頭を駆け巡った。「もし、オレが今やらなかったら、みんなに何といわれるか」。臆病野郎、役立たず、度胸のネエ野郎だ、声が聞こえるようだった。ついさきほど、白刃を抜いたまま仁王立ちになった新米大隊長を心で笑ったばかりである。「まして、オレは上等兵に早くなりたい。隊の幹部もずらりと並んで注目している」。早メシでいかに一番でも、敵を殺せないのでは話にならない。だが、土屋はやりたくなかった。虫を殺すのも嫌いな百姓だった。しかし、やらなければならない。「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分、へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
 目前で仲間であったろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子(リーベンクイツ)」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、それだった。
 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。ガッという音と同時に、相手は吹っ飛ぶようにして転倒した。刺さらなかったのだ。大隊長の失敗の時に抑えていた笑い声が、ドッと起こった。土屋は、もう夢中だった。倒れているのを、また突いた。刺さらない。「ダメな野郎だ」と怒鳴られ、三八式歩兵銃を持った、他の初年兵に代わった。その初年兵が動かない中国人を何回も、何回も刺すのを土屋は肩で息をしながら見ていた。
 土屋の使った新型銃は、新品のため剣先が研いでなかった。丸まっていた。だから刺さらなかった。このことを、土屋は多くの人に聞こえるように声高に話した。同情してくれる仲間もあった。刺せなかった不名誉を多少とも解消できた、と思いたかった。だが、この刺突により、名誉不名誉などではない、もっと重い、いわば心の十字架を土屋は背負い、引きずることになる。「刺さりはしなかったが、オレのあのひと突きで、やつは絶命したのではないか。オレも、ついに殺ってしまったのか」という思いだ。「殺生嫌いのこのオレが人を殺してしまった」。そして、「なに、相手は中国人、チャンコロじゃねえか。オレは世界一優秀な大和民族なんだ。まして、天皇陛下と同じ上官の命令ではないか。一人や二人、いや、国のためならもっと殺せる」。こう自分に言いきかせ、得心した。
 土屋は、敗戦後、戦犯として捕らえられ「自分は日本軍国主義の鬼だった」と気づくが、この刺突が鬼への変身の第一歩だった。初年兵教育、として度胸をつけようとした上官たちの狙いも、まさにそこにあった。
 土屋の刺突によって、その中国人は死ななかったかもしれない。だが、肉体労働を繰り返してきた土屋の突きだ。刺さらなくても絶命はありうる。それに、検視をしたわけでもない。重要なことは、この刺突によって、土屋が人間としての一線を踏み越えてしまったことである。この事件をきっかけにして、人の命を虫ケラ同然、場合によってはそれ以下ぐらいにしか思わない、土屋流にいえば鬼に転げ落ちていった。
 ロシア人墓地に引き出された六人の中国人が、一体何をしたというのだろう。たとえ抗日分子としても、罪があるならしかるべき裁判を経て明らかにし、法に照らして処罰すべきことではないか。自分が殺した相手は、三十五、六歳の働き盛りであった。残された家族たちは、どんな思いだろう。手続きもなく、初年兵の度胸試しとして殺されていった彼は、どんなにか無念だったろう。果たして死刑に値する罪があったのか、などの考えは、この刺突後、二十余年を経た戦犯管理所で思い至ったことである。
 刺突直後の土屋を支配し、その後も支え続けた考えはこうだ。殺傷の対象となった中国人を劣等民族と思い込む。チャンコロという蔑称が、その差別意識を固めさせた。そして、自分は世界一優秀な大和民族であるから、チャンコロの一人や二人殺しても何ら差し支えない。まして戦争中だ。相手は敵だ。より多くの中国人を殺せば、自分の、所属部隊の手柄になり、軍の、ひいては国のためになる。
 優秀であるはずの大和民族の中で、土屋が、父母が、祖父母らがどれほどの辛酸をなめさせられてきたか、などの思いは浮かばない。
 終戦後、土屋と同じ戦犯管理所で生活を送り、現在、土屋もその一員である中国帰還者連絡会の会長でもある富永正三(七一=東京都、元中支派遣軍第三十九師団歩兵三十二連隊第十中隊長)は、刺突訓練の効用をこういう。「中支に派遣後、すぐ部下五、六十人の小隊長になった。部下の目つきが内地の兵のそれとは違っていた。人間の顔ではない。人を殺した目だ。たじたじとなった。刺突ではないが、彼らの前で軍刀の試し斬りとして中国人捕虜を斬殺した。状況的にせざるを得なかった。殺した後、オレも一人前になったと思った。間もなく、他人の刺突の失敗を笑えるようになった。目つきも違ってしまっていただろう」

 

以上、土屋芳雄 「聞き書き ある憲兵の記録」(1991年、朝日新聞出版)P54~P61より引用しました。