長尾和郎「関東軍軍隊日記」(1968年、経済往来社)P71より
※長尾和郎(ながおかずお)さんは1917年東京生まれ。東部第75部隊(横須賀)や東寧第390部隊(関東軍)、満州第1217部隊(旅順)など関東軍を転々とする。戦後、雑誌「新生」編集長を経て読売新聞社出版局に勤務。主な著書に「戦争屋」「暗殺者」「天皇の現代史」など。
「関東軍軍隊日記」は長尾さんが当時つけていた従軍手帳をもとにまとめた従軍体験記。以下は長尾さんの東寧第390部隊時代の1942年(昭和17年)5月の日記。場所はチチハルではないのですが、同じ満州の町(東寧)であり、祖父とほぼ同じ内容を証言していると思われるため引用してみました。
東条陸相が「最後の御奉公だ」と意気ごんで、関東軍がソ連軍との乾坤一擲の決戦を試みようとした《渋柿主義》が消え去り、ソ満国境が膠着状態に入ると、関東軍原善四郎参謀は全軍将兵の士気を維持するため、次の計画に乗り出した。それは「兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力などを綿密に計算して、飛行機で朝鮮にでかけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の曠野に送り、施設を特設して《営業》させた」という(『関東軍』島田俊彦著)。
この影響か、東満の東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりでなく日本女性も、将校用の飲食店で《営業》していたことはたしかだ。わたしは一等兵に進級したある日、戦友の一人と酔うままに施設を覗き歩いたことが、ただ一度あった。施設の全部は藁筵で囲まれた粗末な小屋で、三畳ぐらいの板の間にせんべい蒲団を整き、そのうえに仰向けに横になった女性の姿を見たとき、わたしの心には小さなヒューマニズムが燃えた。一日に何人の兵隊と《営業》するのか。外に列をつくっている兵隊たちを、一人一人殴りつけてやりたい、義憤めいた衝動を覚え、その場を立ち去った。
これらの朝鮮女性は「従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で《営業》するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵隊たちの排泄処理の一道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかも知れないが,戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅感を覚えた。
以上、長尾和郎「関東軍軍隊日記」1968年 経済往来社 P71 より引用しました。