菅原幸助「初年兵と従軍慰安婦」(1997年、三一書房)より
※菅原幸助さんは1925年山形県鶴岡市生まれ。1939年、満州開拓青少年義勇隊員として旧満州に渡り、新京(長春)で終戦を迎える。1953年に朝日新聞記者となり、様々な部署を歴任した後87年に退職。その後ノンフィクション作家として活躍。主な著書に「現代のアイヌ」「二重遭難・谷川岳の記録」「旧満州幻の国の子どもたち」「日本の華僑」ほか。中国残留孤児支援家であり(社)神奈川中国帰国者福祉援護協会理事長でもあった。
「初年兵と従軍慰安婦」は、数人の日本人少年が旧満州で従軍慰安婦を体験する経緯を紹介した、ノンフィクション小説である。
●はじめに
旧満州国(中国東北地方)で生活をしたことのある男子なら、「ピー屋」(慰安婦宿)という言葉を知らない人は少ないはずである。「ピー屋」の語源ははっきりしない。主に日本軍の兵隊さんや、これに属する関係企業、団体の男たちが、異郷の大陸にあって、女性を求めて通った慰安所である。
戦前は公娼制度があった。公娼と従軍慰安婦は異質なものである。慰安婦には日本の女性、朝鮮半島の女性、中国人=旧満州人=女性の三つに大別され、ハルビン市などには白系ロシア人女性の売春婦もいた。
戦後、五十余年、いまごろになって、旧日本軍の従軍慰安婦が、「女性に対する性犯罪」とか「性奴隷」制度だ、と世界各国から強い非難の声が上がっている。
日本政府は、こうした国際世論の非難をかわすため、「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)という本題とは似ても似つかぬ「基金制度」をつくり、国民からの募金によって「償い金」を元慰安婦に支払い「旧日本軍の関与を認め、あやまりと反省」の橋本首相の手紙を添え、一人二百万円の「償い金」を渡すことで解決をはかろうとしている。
しかし、戦争で旧日本軍が犯した性犯罪を五十余年後のいま、国家の責任でなく、「国民の募金によって償う」という手法は、アジア各国民が、とうてい受け入れられるものではない。元従軍慰安婦問題は厚い壁に突き当ったまま解決のメドが立っていない。
第一に、旧日本軍の従軍慰安婦の実態がまだわかっていない。旧満州の関東軍が行った元朝鮮人の民間女性を強制的に連行、慰安婦にした事実は、旧満州の在留邦人約百五十万人、関東軍将兵約百五十万人、計三百万人の人たちの生存者の証言を集めることでほぼ見通しはつくはずだ。が、これとても、被害者の多くは申し出ることをこばんだり、日本敗戦の混乱の中で死亡、行方不明になった気の毒な婦人も多い。従って、おおよその予測で、万を越える被害者がいるはず、といった程度である。
中国大陸、日中戦争ではどうか。町中、村中の娘や主婦たちが強制的に軍の慰安婦に狩り出された例はいくつかある。だが、果たして、被害者は何万人いるのか。これも申し出る婦人が少なく、実態は霧の中である。
東南アジア、特に南方諸国では、二万人を越える日本軍によって強姦されたという被害者が団体を結成して、日本政府に「国の責任による償い」を迫っている。
それにしても、被害者が大勢いるのに、加害者である旧日本軍の将兵は、口をぬぐって沈黙している人が多い。敗けたとはいえ、日本男子たるもの、なぜ「懺悔」しないのか。
「料金を払った」「商行為である」などと発言する国会議員もいる。国会議員の中には旧軍人で、いわゆる従軍慰安婦のお世話になった議員はいないだろうか。
「戦争と性」「死を目前にしたとき、異性を求めるのは人間の本能だ」など人類には古代から戦争、殺人、性欲を満たす犯罪行為をくりかえしてきた歴史がある。もっと寛大に考えられないか、という意見もある。だからと言って、旧日本軍の従軍慰安婦制度を容認することはできまい。
ここでは、旧満州開拓の国策にマインドコントロールされた数人の軍国少年が苦難の満州生活、初年兵を経て「従軍慰安婦を体験するまでの経緯」を紹介した。一部の人は本人の求めで仮名にした。が、内容はすべてノンフィクションである。(P1~P3より)
●“天皇の命令” 女工から慰安婦へ
部屋の中に、黄、赤、紫色の花模様の布団が敷いてあった。朝鮮の女性だ、と聞いてきたのに、日本風の部屋の飾り付けであった。
若い女性が、スカートにセーターを着て部屋の隅に座っていた。昭和十九年九月、午後二時。チチハルの街は、初秋の太陽がまぶしかった。
高橋幸雄(一九)が、チチハル街のどまん中にある従軍慰安婦の宿に、“昼中登楼”したのは理由があった。午後五時以降になると、この宿はチチハル市ほか郊外に駐屯している日本軍(関東軍)の下士官、将校たちでいっぱいになる、と聞いたからだ。
「こんにちは」
幸雄は日本語で、その女性に挨拶をした。
「いらっしゃい」
無愛想だが、日本語が返ってきた。当時、韓国とは言わず、南北共に朝鮮と呼び、人々も朝鮮人と呼んでいた。朝鮮人特有のなまりはほとんどない。東北なまりの幸雄よりもきれいな日本語だった。
「あなたは朝鮮の人。どうしてこんなところで働いているの」
幸雄はその女があまりにも若く、娼婦とはとても思えない感じがして、そんな言葉をかけた。
「分っているくせに。どうしてそんなこと聞くの」
「いや、オレはなにも知らない。志願兵で合格。一週間後には兵隊に行く。老黒山というソ満国境の部隊だ。生きて帰れるとは思えない。この世に生まれてきた『証』に、いや、死出の旅路の思い出に一度位は女性を抱いてみたいと思って・・・・」
「ふん、それじゃ女は初めてなの」
「いや、実は五日前、チチハル市内の日本人女性だけの売春宿?『女郎屋』というのかな、そこで九州の女性と・・・」
「では今日は二回目?」
「はい」
「ふん、珍しいお客さんだね」
突然、彼女が振り向いた。女学生のように幼いが、美しい顔立ちである。「美人というのはこういう顔の女か」--。人生で最も感受性の強い青春なのに、幸雄は若い女性を、この七年間、まともに顔も姿も見たことがなかった。
満州開拓青少年義勇隊員として、昭和十四年六月、牡丹江省(当時)寧安県の寧安義勇隊訓練所に入所した。満十四歳の初夏である。満州娘を一目見たくて、近くの満州人(中国人)の村を訪ねたことはある。が、村の娘はもちろん、中年の女性やおばあさんまで、彼らは日本人を見ると強姦を恐れ、かくれて出て来なかった。
三年間の訓練期間を終え、チチハル市郊外約八十キロ余の大平原、五裸樹屯に入植した。その時、幸雄は設営班として龍江省(当時)寧年駅前の中国人旅館に事務所を構え、開拓団建設準備に当った。
旅館主の李ジャングイ(親分)に王屯長(村長)の娘三人を紹介されたことがある。幸雄が十七歳。恥ずかしくて、まともに娘さんの顔を見る勇気がなかった。兵隊から生きて除隊できたら、屯長の娘さんと結婚して農場を継ぐ話もあった。
あれから二年、幸雄は十九歳。志願兵で入隊する。「明日をも知れぬ命」という追い詰められた環境にあった。勇気をふるい起して従軍慰安婦を買いに来たのである。
女性を抱く?二度目ではあるが、心臓が高鳴った。
「どうしたの。早く布団に入りなよ」
美しい顔に似合わず、言葉遣いは荒っぽかった。
「まだ若いのね。いくつ」
「はい、十九歳です」
「十九歳で兵隊に行くの」
「はい、志願兵ですから」
「軍隊に入ったら戦争するんでしょう。死ぬことだってあるよね。若いのにどうして志願までして兵隊さんになるの」
「日本が敗けたら困るでしょう。オレたち若者が第一線で戦わなければ」
「立派な心掛けね。悪いけど日本という国は朝鮮人も戦争にまき込んで、ずるいと思うわよ。お前たちも日本人だ。天皇陛下の命令だ、一身を捧げて働け、などと言って。それでいて朝鮮人、朝鮮人とパカにする。天皇陛下が同じで、朝鮮人も日本人だというなら日本人と同じに扱ってくれたらいいのに・・・・・」
「・・・・・・・」
「私が、どうしてこんな仕事しているのか知らないの。私はね、釜山近くの村の生れです。日本人の子どもといっしょに、日本の学校で勉強しました。成績もよかったのよ。小学校を卒業すると軍需工場の工員として、強制的に吉林市の工場で働かされたの。三年ほど働いた昨年春、チチハル市に転勤だというので仲間五十人ほどでチチハル市に来たの」
慰安婦は軍人を慰める仕事
「そうしたらどうです。朝鮮の娘たちは全員、軍人を慰める仕事だ、と言うんです。大騒ぎになったのよ。皆泣いて抗議したけど、天皇陛下の命令だ、といって強制的にこんなことをやらされているんです」
「いやだ、と言って従わない娘もいた。すると食事も与えない。暗い部屋に閉じ込めて、何日も、水ばかり。死にそうになった娘もいるよ」
「結局、日本の軍隊に体で協力せよ、ということね。とうとう五十人余りの朝鮮から勤労動員された娘たちが強制的に売春婦にされてしまった。病気もあったけど、一日何人もの兵隊を相手にさせられ、自殺した娘もいます」
「日本の軍隊はひどいね。天皇陛下が戦争の詔書をだし、東条大将たちが戦争を始めたのでしょう。南方じゃアメリカに負け戦だと聞いたけど。本当は、この戦争どうなるの」
「そんなことないよ。日本は必ず勝つよ」
「ウソ、この前の兵隊さんも同じことを言った」
実は幸雄は大東亜戦争に対してほとんど情報を持っていなかった。だが、理屈抜きで日本が戦争に敗ける、とは全く考えられなかった。オレたちがこれから入隊し、訓練を受け、戦場に立つのだ。オレが戦死することはあるかも知れない。いや「死なない」と思う。「オレは死なない」そして、日本は必ず勝つんだ。
観念的にただそう思うだけである。「勝つ」という資料もデータも、根拠もない。それでも、この朝鮮の若い慰安婦に、「日本は敗けるそうじゃないか」と言われると、「そんなことは絶対ない」と反論した。その言葉は、彼女に対する答えであると同時に、自分にも言い聞かせる“決意表明”のようなものだった。
「早く布団に入りなさい。時間がないよ」
彼女は、いとも簡単にそう言って幸雄を布団の中に受け入れた。
朝鮮の娘さんや、中国の戦場では中国娘を慰安婦に徴用、強制的に兵隊の相手をさせている、という話を、幸雄は義勇隊開拓団にいるときから聞いてはいた。しかし、目の前にそうした悲惨な環境に落ち込んだ女性を見た。そして彼女の話を聞いて、胸の痛む思いがした。(P11~P16より)
●強制的に慰安婦にされた十九歳の朝鮮の娘さん。毎日午後五時から一夜十人近い日本陸軍の下士官や将校の相手をさせられ、身も心も荒み切っているようだ。
しかし、さんざん日本軍や日本国のうらみつらみを言った後にしては、なにか名残り惜しそうな言葉だった。
「兵隊に合格した。入隊する。晴れて日本陸軍の兵士になる。むろん死を恐れてはいない。この世の名残りに女を抱いてみなくては」という考えは浅はかだったらしい。
従軍慰安婦。なぜ強制的に日本軍が・・・。しかも朝鮮の良家の娘たちを狩り集めるように連行し、泣き叫ぶ彼女たちを売春婦にしてしまったのはなぜか?
この日、幸雄は四人の拓友とチチハルの街に売春婦を買いに来た。清い心で、新満州建国に青春の情熱をもやす決意で故郷を捨てた少年が、入隊を前に、必死に「女性」を求めたのはなぜか。従軍慰安婦に童貞を捧げたのはなぜか・・・・。四人の義勇隊開拓団員は誰も声を出さない。黙々と歩きながら幸雄はそんな自問自答をしながら、暗いチチハル市街の夜道を中国人宿に向かって歩いた。(P18より)
●「だけど女は日本、朝鮮、中国人・・・どれにするのよ。それによっては金が違ってくるよ」
「オレは恥ずかしいが初めてだ。日本女性にしてくれよ」
「バカ。皆んな初めてだろう。日本人の女は高いぞ。お金の方から考えると朝鮮の女性だなあ」と幸雄。
「日本男子の童貞を捧げるのに、朝鮮の女かね」
「バカ野郎。五族協和で満州に来たんだ。そんな民族のことを言うなよ。中国人でも朝鮮人でも、かえって五族協和になるからいいではないか」
「中国人?チチハル市のどまん中に八百人も売春婦街(遊郭)がある。一発(一時間)一円五十銭かな。安いけど、病気が心配だね」
「やっぱり日本人の女にしようよ。軍の慰安所で将校用の日本人遊郭があると聞いたよ。そこをさがそう。いくら五族協和だって、日本男子の童貞は日本の女性に捧げるべきだ」 (P21~22より)
●(主人公たちは、中国人宿の主人にいろいろと情報を聞く)
「日本人の女が買える慰安所はないのかね」
「あります。ニ、三ヶ所知っている。だけどたしか日本人慰安所は軍隊の将校、下士官だけで、兵隊さんは入れてくれないらしいよ。まして、開拓団の若者ではダメでしょう」
「ねだんは?知っている?」
「高い、というだけでいくらかは知りませんね」
「とにかく場所だけ教えてくれ」
「この街の地図に印をつけておきます。あとは自分たちで捜して下さい」
「わかりました。つぎは朝鮮女性の売春宿の所もあるでしょう」
「あります、あります。最近、増えたようですよ。あの娘さんたちは可哀想に、一般家庭の娘さんを、軍の挺身隊といって満州国に連れてきて、その娘たちを強制的に日本軍の慰安婦として働かせている。日本軍は『朝鮮人も日本人だ』と言って、戦争に朝鮮の女まで狩り出し、軍の慰安婦にする、と中国人たちは非難しています」(P24より)
●(主人公はチチハル市街の日本女性の慰安婦宿を訪ねる、そして行為が終わる)
「生意気な将校や下士官よりも、あんたたちのようなウブな少年を抱いた方がいいね」
幸雄を相手にしてくれた女性は布団に寝そべったまま、そんなことを言った。
「私はね、家が貧乏で、女郎に売られたのよ。ソ連軍がチチハルまで攻め込んできて、私もいっしょに戦死したいわよ」
ほんの少し身の上話をしてくれた。「二十円とは高いね。朝鮮人の慰安婦は三円。中国人は一円五十銭だよ。貴女のふところにはいくら入るの」「収入は六四で六を私たちがもらえるの」「こんな美しい女。しなやかな女性が、売春婦だなんて・・・」
幸雄は戦死しなかった。無事帰国し生き長らえている。姉さんのようにやさしくしてくれたあの九州出身の日本人慰安婦は、五十余年後のいまも忘れられない存在だ。(P37より)
●(数ヶ月後、主人公は再び朝鮮人女性の慰安所へ行く)
工場から従軍慰安婦へ
部屋も広かった。六畳間位はある。アンペラではなく白壁だった。赤い模様の布団が敷きっぱなし。その上にまだ二十歳前と思われる女性が一人で気が抜けたように坐っていた。筒井も隣の部屋に入った。
「お金は先払いで願います。一時間後、私がお迎えに上ります」と、軍属らしいその男は、そういい残して立ち去った。
「あんた下士官でないでしょう」
その慰安婦は一見して幸雄を初年兵と見抜いた。
「ここは将校と下士官だけなのよ。見つかったらひどい目に会うわよ」
色白。若くて、いい顔立ちをしている。久しく若い女性をまともに見たことがない幸雄には、女性はみな美人に見えた。胸が高鳴るのを憶えた。落着け、落着け・・・。自分に言い聞かせた。それにしても朝鮮からの従軍慰安婦と聞いていたのに、流暢な日本語を話すのに驚いた。
「あなたは初年兵でしょう」
彼女は執拗に尋ねた。「はい、初年兵です。あちらの宿が満員で入れなかったので、ここを紹介してもらいました。よろしくお願いします」
一日三十人相手で病死した慰安婦も
幸雄は、自分でも不思議だった。慰安婦に対して、上官に答えるような口調で話してしまった。
「あなたたち兵隊さんは、私たちをどんな女だと思っているの」
「いや、別に、あの……兵隊を慰めてくれる女性と思っています」
「冗談じゃないです。私たちは日本のお役所から軍需工場で働いてくれ、と言われ、女学校を卒業するとすぐ夜汽車で満州に送られてきたのよ。初めの半年間はハルビンの兵器工場で働いたわよ。それがどうですか。有無を言わさず強制的にこんな仕事をやらされることになったのです」
「まだ、故郷の父母には知らせていません。しかし、いずれはバレるでしょう。もう私の一生は終わりです。初年兵の兵隊さんにこんなこと言っても……」
「将校、下士官相手はまだいい方。兵隊さん相手は満員でしょう。一日に三十人もの兵隊を相手にさせられ、病死した女の子もいるのよ。だから、私も不安で……」
彼女は両目からボロボロと大きな涙を流し、むせるような声で泣いた。
幸雄は身のちぢむ思いだった。「朝鮮の娘さんたちが、従軍慰安婦としてソ満国境に大勢連行されている」ということを、実は幸雄は知っていた。チチハルでは体験もした。だが、こうして本物の女性と向き合い、「強制連行で良家の娘さんが従軍慰安婦にされた」と訴えられると、胸が詰まる思いだった。(P193~195より)
●韓国、朝鮮の女性たちが、旧満州で地獄のような慰安婦生活に突き落とされた数は明確な資料がない。敗戦時、関東軍の各部隊は「重要書類は全部焼き捨てよ」という命令を出し、関係資料が焼かれたことも一因だ。おそらく数万人という単位の韓国、朝鮮人女性が、軍慰安婦の苦しみを強制されたと推定される。
日本人の親たちが、自分の娘が集団でアメリカか外国の軍隊に強制的に連行され、従軍慰安婦にされたら、なんと言って騒ぐだろう。
なんの罪もない他民族に、地獄の苦しみを与えながら、五十余年もの間、その苦しみや痛みを理解してあげようとしない。国としての責任を果たそうとしない。「それが、いまの経済大国日本及び日本国民だ」と言われても反論の余地がないだろう。(P203より)
●まず、桜井よしこさん(ジャーナリスト)の「論壇」を分析してみよう。
前文に「私は同性として表現しつくせない痛ましい気持ちを抱くものである(略)」とある。これは当然のことで正論と言える。だが、読み進むと「しかしそれが日本軍や政府の強制連行によるものだと具体的に示す資料は、現時点で寡聞にして私は知らない。(略)女性たちを強制連行で集めたことを示す資料は今の時点ではみつかっていないと考える」とある。「知らない人」が新聞で論評するのはいかがなものか。
強制連行の資料が「見つからない」のはなぜか。桜井さんはその原因を調べたのだろうか。
旧満州国の関東軍(日本軍)は八月九日のソ連参戦後、直ちに、軍の機密書類を全て焼却するよう全部隊に秘密指令を出した。その焼却資料は①諜報(スパイ)に関する事項②七三一部隊など国際法に違反する非人道的な軍事活動資料③毒ガスなど化学戦兵器で国際法に違反すると思われる事項④従軍慰安婦強制連行及び慰安所の所在地、管理に関する事項等々であった。
これは筆者が敗戦直後、新京の関東軍総司令部で少佐の上官から命令として聞いたことである。その後、筆者は約二千人の日本人婦女子を日本まで避難させる命令を受け、新京(長春)を列車で出発した。奉天(瀋陽)、吉林、平城、京城、釜山まで南下したが、関東軍の各部隊は「軍機密書類焼却の命令」に基づいて、各地で大掛りな焼却作業をソ連の武装解除まで続けていた。日本本土でも同じように、軍の機密資料焼却が全国的(全軍)に行われている。
おそらく、旧満州の関東軍駐屯地や元関東軍総司令部での「従軍慰安婦」に関する資料を発見することは困難と思われる。
だが、「強制的な従軍慰安婦制度」については、証拠書類を焼却したとしても敗戦時百五十万人といわれる関東軍将兵がいた。この将兵たちは大半がいまも沈黙している。本書に出てくる幸雄たち一部の兵士がようやくその体験を語り始めたばかりである。この問題は被害者も加害者も表面切って名乗り出て、真相を語ることは大変な勇気のいることだ。
従軍慰安婦、特に旧満州の関東軍が行った朝鮮半島女性の「強制連行による集団的性奴隷」といわれる問題の実態を明らかにする。これは加害者、つまり元日本軍将兵の勇気ある正しい証言によるほかに道はけわしいと思われる。
証拠となる関係書類を焼き捨て、加害者の軍関係者は口を閉して語らない。そしてジャーナリスト、学者、政治家が半世紀を過ぎたいま、「日本軍や政府が強制連行で従軍慰安婦にした具体的な資料は今の時点でみつかっていない」と、「従軍慰安婦」制度を否定するような発言をする。果たしてこれでアジアの各国民は納得するだろうか。
桜井論文はさらに続く。「他の資料でも(略)強制連行、強制的な募集に軍がかかわったことを示すものは、私の知る限り、ない」と断定的に書いている。
旧満州に関する限り、焼却によって関係書類は失われて、「ない」のである。さらに、この論文は「従軍慰安婦の情報(河野代議士発言)を公開せよ」、と主張している。河野代議士が、どれだけの情報を持っているのか。筆者は関東軍の敗戦時の情況から、文書等による従軍慰安婦強制連行記録の公開はきわめて困難だ、と指摘したい。
残された道は一つ。元関東軍の将兵で、生き残っている人たちが口を開き、いつわらずに証言することである。(P238~P241より)
以上、菅原幸助「初年兵と従軍慰安婦」(1997年、三一書房)より引用しました。