土屋芳雄「聞き書き ある憲兵の記録」(1991年、朝日新聞出版) より

※土屋芳雄さんは1911年山形県生まれ。1931年、関東軍独立守備隊に入隊し、34年からは関東憲兵隊の憲兵として終戦までを過ごす。その後戦犯としてソ連に5年、中国に6年抑留され、1956年8月に日本に帰国を果たす。「聞き書き ある憲兵の記録」は、彼の体験談を朝日新聞山形支局の記者が聞き取りして記録したもの。従軍慰安婦・慰安所に関する部分を引用してみました。

娘子軍のこと

 日本憲兵として、日本兵として中国でやってしまった残虐行為を、あまりよどむことなく話してきた土屋だが、ある時、口ごもった。「実際に自分が体験したことではある・・・。話はしましょう・・・。しかし、書くことができるのかどうか・・・。」娘子軍(じょうしぐん)のことだという。

 従軍慰安婦をそう呼んだ。日本軍が行くところに、ついて来た女性部隊だ。軍属の服を着て、軍と一緒に行動するなどという“部隊”は、おそらく世界でも初めてではなかったか。チチハル市には、軍専属の慰安所が三ヶ所あった。二ヶ所は朝鮮人女性で、残りが日本人女性だった。兵たちは、外出となると、この慰安所の前に列をつくった。彼女たちは、一日に二、三十人もの兵を、多い時は五十人近くを相手にしていた。夜になると将校の番だった。あまりの激務に、病気になる女性も少なくなかったが、性病以外では、ほとんど休みを与えられないのが実態だった。

 軍は、皇軍の兵の間で病気がはびこるのを恐れ、性病には神経を使った。毎月一回、検梅と称して軍医が、彼女たちを診察した。この場に、憲兵も立ち会った。だから、この世界について土屋は詳しい。それはともかく、彼女たちは、病気で廃人同様になるまで働かされていた。自殺者もあった。当時、日本国内の遊郭に身を沈めた女性たちと同じように、満州での彼女たちも、貧しさゆえに売られた農村出身者が多かった。国内で売られ、さらに満州に転売された女性もいた。朝鮮出身の彼女たちも、女衒の手で売られてきていた。

 軍専用の慰安所のほかにチチハル市には遊郭街があった。永安里といった。接客婦は、中国人だけで五、六百人もいた。大小合わせると数十軒以上の妓館があったのではないか。この中に、朝鮮人の接客婦四十人ぐらい、日本人は二十人ほどが混じって働かされていた。治安が不安定だったころ、毎月一、二回ほど土屋たちは、この歓楽街を包囲し、検問検索をしていた。だから、土屋はこの街の隅ずみまで知りつくしていた。

 詳しいついでにいえば、日本から売られてきた彼女たちの売り値は百円ぐらいだった。親たちが受け取る金額だが、いわゆる借用証文は着物代だとか、布団代といった支度金を理由に加算され、三百円から五百円にもなっていた。稼ぎはというと、時間で二円くらい、泊まりで五~十円の料金の三分の一にもならない。その上、それから食事代とか病気治療代とかいって、また差し引かれるのだから、借金は一向に減らない。骨の髄まで搾られるような仕組みになっていた。

 もっとも土屋自身は、当時も、彼女らの不幸な境遇に思いをはせていたか、どうか。金で女性を買うことの善悪についてもだ。

 というのも、土屋自身が彼女らの客になっていたからだ。むろん、結婚前だったが、日本人、中国人、朝鮮人の女性を土屋は買った。一人ひとりについて、それなりの記憶もある。しかし、彼女らへのやましさは、やはり当時はなかった。むしろ、監軍護法の憲兵として、女遊びにうつつをぬかしていると思われたくなくて、仕事にかこつけては通ったことの印象が強い。

 ところが、この、女遊びとしか思っていなかったことが、戦後、中国の戦犯管理所で指弾された。「彼女(慰安婦)たちのことを考えてみろ。好きこのんで男の相手をしたのではない。家が貧しくて金で売られてきたのだ。彼女らも戦争犠牲者だ。嫌がるのを無理強いしたのだから、婦女暴行罪である。」戦犯仲間から、こう説得され、土屋は認罪した。「中国人二人、朝鮮人四人、日本人二人を暴行した。」だが、当時はもう一つ、腑に落ちなかった。

 戦地で兵を相手にしていた女性たちが、日本軍のどのような詐術で連れて来られたかは、日本に復員後、書物などで知った。戦局が激しくなってからだが、朝鮮の女性は、女子愛国挺身隊の名のもとに募集された。日本の軍需工場にでも、と思い込んでいた彼女たちの仕事は、思いもよらないことだった。さらに、女子報国隊として送り出され、「お国のために」と将兵の相手をさせられた日本の女性たちもいた。その上、彼女ら慰安婦が終戦直後にたどらされた運命を考えると、彼女らを遊び相手にしたことは、土屋にとって、拷問したり処刑したことと同じように罪であったのだ。

 

以上、土屋芳雄「聞き書き ある憲兵の記録」(1991年、朝日新聞出版)P142~P145より引用しました。