慰安婦強制と軍の直接関与は

 

 「歴史の事実」である

 

★初めてこのサイトに来られた方へ-ここは何のサイト?
はじめまして、私は根本 大(ネモト マサル)と申します。栃木県鹿沼市在住の45歳です(サイト作成時43歳)。ここは、実際に戦争を体験した私の祖父の体験談を綴ったサイトです。具体的には、チチハルでの匪賊の討伐、パラオでのアメリカ軍との戦闘、シベリア抑留、そしてチチハルの慰安婦や慰安所に関する証言が書かれています。私はこの祖父の証言を聞き、特に朝鮮人従軍慰安婦に関する部分に衝撃を受けました。そして、これは後世に伝えていかなければならないと思い、このサイトを作成した次第です。皆様の参考になれば幸いです。ご意見・ご感想等ありましたらメールにてお寄せください。

★祖父の紹介
私の祖父は 根本 長寿(ネモト チョウジュ)と申します。

(2014年10月27日、自宅リビングにて撮影)
大正9年(1920年)3月1日生まれ、2016年3月現在96歳で元気でおります。(サイト作成時94歳)
旧日本陸軍軍曹、戦争で満州やパラオ諸島に派遣されていました。

★祖父の軍歴

大正9年3月1日生 最終階級:陸軍軍曹
昭和16年3月 歩兵第59連隊要員現役兵として歩兵第66連隊歩兵砲隊に入営
昭和16年3月 チチハル歩兵第59連隊到着 第2歩兵砲中隊に編入
昭和16年9月 阿爾山(アルシャン)防衛隊交代要員としてチチハル出発
昭和17年1月 阿爾山防衛隊勤務終了帰還のため阿爾山出発
昭和17年1月 駐屯地チチハル着 同日より同地附近の警備
昭和19年4月 パラオ諸島パラオ港上陸
昭和19年4月 アンガウル島警備・パラオ本島警備
昭和19年~昭和20年 中部太平洋第1次~第4次パラオ作戦に参加
昭和21年1月 浦賀上陸 召集解除

~「履歴証明書」より。(フォトギャラリーにUPしてあります)

(※お詫びと訂正・1)  

★朝鮮人慰安婦に関する証言の概要

1、慰安婦強制と軍の関与は事実である。
2、祖父の居た1940年代初頭のチチハルでは、業者ではなく軍が直接、朝鮮人集めや慰安所の設営を行っていた。
3、朝鮮人の女の子達は皆、自分の意思に反して慰安婦をやらされていた。自主的な売春婦などではない。
4、朝鮮人慰安婦=性奴隷 という表現はその通り。そういう扱いをされていた。
5、この時代、日本軍は、朝鮮人を、男はドカタとして強制労働、女は慰安婦。完全に奴隷扱いしていた。朝鮮には非常に悪いことをした。

 

★証言

自分のじいちゃん、今96歳で、1941年の時に21歳で戦争へ行った。最初は満州のソ連との国境付近で警備に当ってて、何度か中国兵やソ連兵と武力衝突して戦ったって言ってた。で捕虜にされてシベリアに行った。そこは零下40度の世界で、原住民は横穴を掘ってそこに住んでいたと言っていた。収容所も建物ではなく小高い丘のような所の中腹に掘った横穴で、中は10度位で暖かかったと。で太平洋戦争末期、何らかの理由で解放されて、日本に帰れる予定だったのだが、急に太平洋のパラオ諸島(アンガウル島・パラオ本島)に行かされることになった。そこではアメリカ軍の艦砲射撃やら飛行機による爆撃・機銃掃射などで、あるいはマラリアや栄養失調などで、仲間が大勢死んだと言ってた。パラオ本島ではアメリカ軍は直接人間を上陸させてこず、白兵戦のようなことはほとんどなかったと言っていた。腹が減って畑の作物を無断で食べたら原住民に怒られて、後で金を払い許してもらった、パラオは当時日本の委任統治領だったせいか、原住民は日本人には非常に親切で優しかったと言っていた。そして終戦、収容所生活を経て、1946年に生きて帰ってこれた。
生き延びたのは本当に運が良かったと言っていた。で自分は、従軍慰安婦問題について色々と聞いてみた。それは本当にあったことなのか、業者がやっていたのではないのか、ただの売春婦ではないのか、証拠が残っていないのはなぜなのか、等々。するとじいちゃんはこのように証言してくれた。
『慰安婦強制と軍の関与はすべて本当のこと。そして業者ではなく軍が直接やっていた。少なくとも満州で自分が居たところ(チチハル)には業者など居なかった。自分の所属していた宇都宮第59連隊の中に、朝鮮人を連れてくる専門部隊があって、人数は数百人はいたと思う。強制的に、朝鮮人の男はドカタなどの強制労働に、女は慰安婦にさせていた。専門部隊のメンバーは、当時の自分よりずっと上の階級の人で、直接話などをしたこともなく、具体的にどこから朝鮮人を連れてきていたのか、などは残念ながら分からない。自分の仕事は、ソ連の戦車を撃つための大砲があって、その大砲を馬が引いていたのだが、その馬の鉄沓(蹄鉄)持ちだった、だから朝鮮人連行部隊とは直接関わりはなかった。朝鮮人は男はドカタとして、女は慰安婦や看護婦として、第14師団からこき使われていた。チチハルの慰安所は、建物(小屋)がいくつも並んでいて、そこに朝鮮人の女が住み込んでおり、日本兵はその小屋の中に入って性の相手をさせた。その慰安所だけで、朝鮮人慰安婦は200人は居たのではないか。自分も慰安所を利用したことが幾度もある。それは上からの命令でやっていた。やりたくない者はいいがやりたければタダでやってよかった。自分は金を少しは持っていたので幾らかは女にあげたりもした。ある時建物に入ると、朝鮮人の女の子が出てきて、泣いていた。話を聞くと、戦地看護婦募集というのに応募してきてみたらパンパンにされた、との事。お前何歳だ、と聞くと17歳と答えた。自分は彼女に対し、『と言っても日本に逆らったら殺されるんだからしょうがないじゃないか、慰安婦やりなさい』などと教え諭した。女性はみな10代~20代くらいで、強制的に慰安婦をやらされていたものだから皆泣いていた。一番若い女で、大体15~16歳くらいから連れてこられていた。また野戦での慰安所は、登山のキャンプに使うような小型のテントだった。そこには全員朝鮮人を連れて行っており、日本人も中国人もロシア人もいなかった。』

慰安婦強制は悪いことだと思わなかったのか?と自分は聞いた。
『思わなかった。当時は、武力で相手国を倒して領土と資源を奪うこと、それが大日本帝国のため、お国のため、という考えだった。みんなそうだった。そのために相手国の人間を殺すことは悪いことだと思わなかった。殺人を悪いと思わなかったくらいだから、無理やりもしくは騙して連れてきた女とセックスすることなど悪いとは思わなかった。むしろこの女は日本の兵隊のために役に立っているのだから良いことだと思った。』
(この会話の冒頭、祖父は「悪くねえんだよ!」と一瞬、気色ばんだように答えた。そしてしばらくして「いや、悪いことだわな」と訂正した。当時の考えが頭に残っていて、自分の行為を非難されたように感じたのだと思う)

『それに朝鮮は当時、日本の「属国」だったから、日本人は朝鮮人を一段下に見ていた、というより完全に奴隷扱いだった、だからそういうことをしたんだ。銃を持っている軍人が沢山いたわけだから、慰安婦は逃げ出すことなど出来なかった、見つかれば銃殺されるか連れ戻されるか、実際殺された女も居た。とにかく当時の日本の軍人は、「日本の言うことを聞かないと殺す」というやり方だった。だから、日本は今北朝鮮の拉致問題をどうこう言っているが、もともとは日本が朝鮮にそういうことを、いやもっとひどいことをしたんだ。だから慰安婦の強制性と旧日本軍の関与を認めた河野談話は正しい、カイロ宣言にある「奴隷状態ナル朝鮮ノ人々」という表現もその通りだ。』

その他、次のような証言をしてくれた。

・中国人は、日本軍が近づくと若い女をみんなどこかに隠した(見つかると連れて行かれてしまうから)、だから後に残ってるのは婆さんばかりだった。
・自分が駐屯していたのはチチハルの郊外。名前は忘れたがかなり大きな川があって、その近くに駐屯していた。チチハルはかなり大きい町で、現在の宇都宮くらいはあったんじゃないか、自分の駐屯していたところからチチハルの街中までは数キロだった。
・チチハルの街中には日本人女性も自分で慰安所を経営してる人がいて、自分はそういう所にも遊びに行った。
・慰安所があったのはチチハルでの話で、シベリアやパラオには無かった。
・朝鮮人慰安婦=性奴隷 という表現はその通りだ。そういう扱いだった。
・チチハル郊外には、中国人の「匪賊」と呼ばれる人たちが居て、彼らは普段は農業をやっているが時には武装して日本兵を攻撃したり中国人を襲って略奪などをやっていた
・奉天あたりまでは戦争の痕跡はなかったが、チチハルでは郊外に満州事変の時の戦闘の痕跡が残っていた
・チチハルの住民は当然中国人で、当時は日本が満州を統治していたが、自分が行った時は反日・抗日運動などは無かった
(※現在でもチチハルと宇都宮市は友好都市関係にある。wiki参照)
・地元の知人がシベリアからパラオに行くとき、自分とは別の船に乗ったが、その人の船は台湾沖でアメリカ軍の魚雷攻撃を受けて沈没した、当然その人も死んだ。自分はかなり遠回りな航路の船に乗ったので助かった、これも運が良かった。

《その他、Q&A》

Q、日本とソ連は終戦間際まで不可侵協定を結んで戦ってないのに何故捕虜になったのか?また、なぜ解放されたのか?
A、自分のいた歩兵59連隊はまず1940年にチチハルに行って、名前は忘れたが大きな川のほとりに行って駐屯していた。そして「匪賊」の討伐をした。(慰安婦で女遊びをしていたのはこの時期のこと)。そこにソ連軍が攻め込んできて、捕まってシベリアに連れて行かれた。59連隊の中でだいたい500~600人程度捕まったのではないか。それは日ソ中立条約(1941年4月締結)の前の話で、シベリアには3~4年居た。解放された理由は忘れてしまって思い出せない。(※訂正・2)

Q、当時、日本軍が朝鮮人を強制連行していることは日本国民は知っていたのか?
A、それは知らなかったと思う、秘密にやっていた

Q、慰安婦問題は、なぜ戦後45年間も問題にならなかったのか?
A、当時の朝鮮人は奴隷的な扱いをされるのをやむを得ないというか仕方がないこと、という感覚が染み込んでいたのではないか、だからそもそも慰安婦制度を問題視しなかったのではないか

Q、軍が強制連行や詐欺による誘拐などをやった証拠は一切ないらしいけどどういうこと?(※私が無知だったがための間違い;実際には存在している)
A、それは分からない。証拠が残らないようにやったか、隠滅したんじゃないのか。師団・中隊・連隊等それぞれに、部隊の行動などを指示する事務専門の部署があって、大東亜戦争に負けた後、そこが日本に都合の悪い証拠書類をまとめて燃やして隠滅した、という話は聞いたことがある
(※歴史学者の林博史 教授にも聞いてみました;
林教授の回答:「北朝鮮の拉致問題にしても、拉致を指示した文書や拉致現場の映像がどこにあるか。軍隊といえど官僚組織であり、合法性に問題のある行為をする時には証拠を残さないようにやるのが普通。事実を実証する手続きにしたがって行われた研究によるかぎり、それを否定するようなものはない。詳しくはここを参照してほしいhttp://fightforjustice.info/とのことでした)

Q、今、韓国は10万~20万人の女性が強制連行されたと言っているがその数値は本当か?
A、そうだな。いろんな部隊が朝鮮人を連れてきていたわけだから、全体としてそういう数も有り得る

Q、朝鮮人は、そういう大規模な強制連行に抗議しなかったのか、それに、中国人がやったように、女を隠すとか逃げるとかすれば良かったじゃないか。
A、逃げられないよ。それに抗議も出来ない。当時の朝鮮は日本の属国だったし、当時の日本軍は『日本に逆らえば殺す』という態度だった、それに朝鮮の各地方ごとに軍隊を駐留させて武力で朝鮮を監視・制圧していた(いわゆる「武断政治」)だから当時の朝鮮人は日本に逆らったり逃げたり隠したりはできなかった。

Q、シベリアで何をして暮らしていたか?
A、ソ連軍の戦車や兵器を入れておくための壕(横穴)を掘ったりしていた。つまり強制労働。ロシア人の言うことを聞くしかなかった。横穴の収容所の中での暮らしは原始時代のような暮らしだった。

Q、何人くらいの女と遊んだのか
A、10人~20人くらい。

Q、連行の方法は騙す以外に何があったのか。借金のカタに縛られたり、貧困のために親に売られた女性なども居たと聞いているが?
A、自分のような一兵卒には分からない。もっと上の人でないと。

Q、看護婦募集に応募して騙されたという女以外にどういう朝鮮人の女性が居たか?
A、自分の記憶にはっきり残っているのはその女だけだ。騙されて連れてこられたというケースが一番多かったと思う。当時の朝鮮では日本語教育をやっていたし、話し方や仕草で朝鮮人だと分かった。

Q、女が妊娠したらどうしたのか
A、分からない。ただ、軍から避妊具(サック)の支給はあった。

Q、女が病気になったりしたらどうしたのか
A、衛生兵が居て、そういう女はどこかに連れて行かれた。入院させられたのか、死んだのか、その辺は分からない。その辺はおそらく上級の人間が秘密に処理していたと思う。仲間うちで、「こないだ行った時あの女居なかったなぁ」などと喋り合っていた。

Q、慰安所から逃げ出す女は居なかったのか
A、慰安所の周りを、銃を持った兵隊が取り囲んでいた。逃げられなかったと思う。

Q、チチハルは大きな都市だったらしいが、慰安所はチチハルの一箇所に固まっていたのか、それとも散在していたのか
A、一箇所に固まっていた。町外れの、農家の、草畑みたいなところ、なるべく人目につかないところに建物(小屋)をいくつも建てて、そこに連れてこられた朝鮮人慰安婦が住み込んで慰安所をやっていた。慰安所の設営は連隊が主体になって秘密にやっていたのだと思う。当時の日本国民は知らなかったことだ。チチハルのその慰安所だけで朝鮮人慰安婦は200人は居たと思う。

Q、チチハル以外の満州の諸都市にも慰安所はあったのか
A、自分は日本を離れ、大連から奉天、そしてチチハルに行った。大連や奉天にはあまり駐屯していなかったので分からない。しかし、チチハルにあったくらいだから、ハルビンなど大きな都市にはもっとあったのではないか?

Q、殺された慰安婦の女は、どういう時に殺されたのか。逆らったりした時か。
A、自分らは殺すなどという事はしなかったが、59連隊の中で、満州事変に参加した連中、つまり自分らの前に行っていた連中は、そういうことをしたと聞いている。朝鮮人も支那人も酷い目にあわされたと聞いている。自分は、看護婦募集に応募して来てみたらパンパン屋にされたという少女がかわいそうになり、給料をもらった時、そこから金を渡したりした。

Q、大東亜戦争が終わったとき、朝鮮人慰安婦の女はどうなったのか?
A、自分はシベリアからパラオに行ったのでその辺は分からないんだ。全体として、朝鮮人を慰安婦にするというのは、大日本帝国政府が決定し、そこから各師団に連絡が行き、さらに朝鮮に連絡が行って、看護婦募集などという名目で朝鮮人女性を騙して召集し、慰安婦にした、そういう流れだったのだと思う。自分が行くより昔は、日本人の慰安婦ももっと居たのだけれど、満州事変や日中戦争の勃発などで内地に帰ってしまった。その代わりに朝鮮人を集めてきたんだ。また、チチハルには日本から来た開拓団も生活していて、彼らは土地を開墾し、農業をやっていた。でも大東亜戦争が始まると日本人はみな日本内地に帰ってしまった。でも朝鮮人は帰さなかった。当時、朝鮮人は、男はドカタで強制労働、女は慰安婦。本当に奴隷扱いだった。

(ここまで、2014年9月26日までの更新分)

Q、看護婦募集に応募して来てみたら騙されてパンパン屋にされたという少女に対し、どのように言ったのか、もっと具体的に?
A、『俺たちゃ命がけの仕事に引っ張り出されて、いつ死ぬか分からないような仕事をさせられているんだ、おめえらは男と遊んで金もらえるんだから良い商売じゃねえか、日本に逆らったら殺されるんだぞ、慰安婦やりなさい、おめえらは日本の兵隊のために役に立っているんだから、不満を言うなんて間違ってるぞ』などと言った。

Q、それは、当時の兵隊はみなそのように思っていたのか。慰安婦を強制することを悪いことだと思っている兵隊は居なかったのか。
A、居なかったと思うよ。みんな笑って慰安所に行っていた。しかし自分は一方でその少女のことをかわいそうに思ったのも事実ではある。朝鮮人は、「日本の兵隊はひどい」と言って、当時から日本を恨んでいた。(※こんなことをされたらどこの国の人でも日本を恨むと思う)

Q、金はどのくらい慰安婦にあげたのか
A、当時は一ヶ月分の給料は約2百円だった。現在のお金で言うと2~3万くらいじゃないか?それを全部、慰安婦にあげたりした。

Q、全部あげた?他に給料の使い道はなかったのか
A、なかった。食事は配給だったし、服や装備品も配給、寝る所は兵士宿舎、酒(チャンチーという、こうりゃんで作った酒)もタバコ(ほまれという銘柄)も配給だった。チチハルには飲み屋もあって、行ったりはしたが・・・でも基本的に、月二百円で足りた。全額慰安婦にあげたりした。

Q、それでは、朝鮮人慰安婦は結果的に大金持ちになったのではないか
A、そうかもしれないな。しかし、タダで遊んでも良かったんだ。

Q、慰安所に行く時はどのようにして行ったのか?
A、慰安所に初めて行ったのは、自分がチチハルに着いてからすぐのこと。中隊長や小隊長など、上の人が兵隊を集め、みんなでまとまって行った。行ったのは毎週日曜の、野戦が休みの時など。月2~3回行った。慰安所に着くと、隊長が、「お前はこの部屋に行け、お前はここだ」などと割り振りを決めた。

Q、それでは、兵隊一人一人が勝手に行けて、自由に女を選べるとか、そういうシステムではなかった?
A、そうではなかった。上の人に引率されて行ったんだ。女も自由に選べたわけではない。

Q、チチハルで、日曜日以外は何をやっていたのか
A、「匪賊」の討伐。つまり治安維持。匪賊を討伐して治安が良くなったので、中国人を殺すなという通達が出た。しかし実際に殺しても罪に問われなかった。匪賊が居て危険なため、全体的に個人行動はできなかった。

Q、じいちゃんは、朝鮮人を殺したことはなかった?
A、朝鮮人は殺さなかった。

Q、中国人(匪賊)、ロシア人、シベリアの原住民、パラオの原住民、アメリカ兵、このうちじいちゃんが殺したのは?
A、中国人の匪賊は殺した。あとは殺していない。チチハルでの野戦で、周りが草むら、田んぼのようなところで、匪賊らしき集団が12人くらい、向こうの家に逃げていこうとするところを、後ろから自分含め3人くらいで撃って殺した。一人当たり10発くらいは撃ったんじゃないか。使ったのは小銃。10mくらいの距離だったと思う。警告なしで、いきなり不意打ちで撃った。団体行動をしているということは悪いことをしているんだと判断した。死体の確認はしなかった。それでも上から怒られたり罪に問われたりすることはなかった。さらに中国人の家に上がりこんで食べ物(米・こうりゃん・とうもろこしなど)を没収したりした。中国人は怖がって食べ物を差し出した。押入れの中などもかき回して探したりした。中国人は「食べ物はやるから助けてくれ」という態度だった。中国人の家では、なぜか婆さんしかいなかった。男は老若問わずおらず、女も若い女は居なかった。ドカタや慰安婦として連れて行かれるのを恐れてどこかに隠れていたのではないだろうか?

Q、アメリカ人も殺していない?
A、殺していない。パラオで自分らが居たところはアメリカ軍は素通り、映画に出てくるようなジャングルの中でのゲリラ戦のようなことはなかったんだ。アメリカ軍の艦砲射撃などで死んだ人は居たよ。ただ、隣のペリリュー島は飛行場があったためにアメリカ軍に狙われ、ひどい玉砕を食ったんだ。

Q、チチハルの慰安所とはどのようなところであったか。ネット上から見つけてきた画像だが、http://i.imgur.com/kuaOWat.jpg このような感じか。
A、そう、このような感じだった。粗末な小屋だった。しかし、この画像のような、部屋がいくつも連なった、横長の建物ではない。一つ一つの建物(小屋)が独立して建てられていた。そして天井は画像よりもっと低く、お前の背丈(※私は身長176cm)くらいだったんじゃないか。敷いてあったのは布団やゴザやベッドではなく、固い毛布のようなものだったと思う。そして掛け布団が一枚あった。中はかなり狭く、2~3畳ほどであったと記憶している。

Q、朝鮮人集めや慰安所の経営に、「業者」は携わっていなかったのか。本当に業者を見たことはないか。
A、うん、やはり業者というのは見たことがない。軍が直接やっていたんだと思うよ。

Q、中国人の慰安婦というのは、居なかったのか?
A、中国人慰安婦とは遊んだ記憶がない。

Q、70年も前のことをよく思い出せるね?
A、一緒に居た戦友がいれば、「あの時はこうしたよなあ」などとお喋りしてもっと思い出せると思うが、みんな死んでしまったので、なかなか思い出せないよ。

Q、韓国は今、日本は従軍慰安婦問題について誠実に対応しなければならない、などと言ってきているが、日本はそうすべきだと思うか。謝罪や賠償をすべきだと思うか。
A、当時には当時のやむをえない事情があったわけで、確かに今考えれば悪いことをしたとは思うが(罪悪感はある)、当時の朝鮮は日本の属国として日本の世話になっていたわけで、いまさらそれを謝罪や賠償する必要はないと思う。当時は、敵国の兵隊を殺せば「良い事をした」と褒められた。他にも、日本の首相はアジア各国に謝罪してきているが、それは必要ないと思う。当時を生きた人達に聞けば、みんなそう言うんじゃないか?
(※↑祖父がこう言い切ったのは自分も意外でした。しかし考えてみれば、当時を生きた人達からすれば、これが自然なのかもしれません。しかし自分は祖父の考えには反対です。慰安婦強制は当時としても国際法違反の犯罪ですし、同じことを日本が他国からやられたらやはり許せないと思うのが当然だと思うから)

Q、パラオには本当に慰安所はなかったか?
A、なかった。クロンボ(祖父の使う差別語。原住民の意)の女なんてどこにいるか分からなかったな

Q、パラオではどのような生活をしていたか?
A、普通に島の中で暮らしていた。
やしの木の「シントウ」(やしの実がなる部分)を生で食べたら原住民に怒られた。他にもやしの実、バナナ、他の果物などを食べていた。敗戦後の「収容所生活」というのも、収容所という建物があったわけではない。島の中で普通に暮らしていただけだ。

Q、パラオでの戦闘では何の仕事をしていたか?パラオにも馬を連れて行ったのか
A、馬は連れて行っていない。基本的に壕の中に隠れて、速射砲を撃つことくらい。自分がいたところはアメリカ軍は素通りで、直接に激しい戦闘は無かったんだ。
(※このサイトの最初のほうで、私はパラオでの戦闘がいかにもすさまじく激烈なものであったかのように誇張して書きすぎたようです。アメリカ軍の艦砲射撃や機銃掃射などで、59連隊の兵隊が大勢死んだのは事実なのですが、祖父から詳しく話を聞いてみると、どうも祖父の居たところは基本的にアメリカ軍は素通りで(アンガル島・パラオ本島ともに)、直接に激しい戦闘は無かったようなのです)

Q、敗戦はどのようにして知ったか
A、米軍機か日本軍機か忘れたが、とにかく飛行機からビラが撒かれて知った。それを米軍のデマだとか疑ったりはしなかった。やがて上から「内地に帰る」という命令が来た。

Q、敗戦後なぜすぐに日本に帰らなかった?なぜ収容所生活を?
A、日本に帰る定期便の船がなくなってしまったんだ。

Q、当時から兵隊の間では慰安婦を指す言葉として「パンパン」という言葉は使われていたのか。その朝鮮人の女の子は自ら「パンパンにされた」と言ったのか。自分らのイメージでは「パンパン」とは敗戦後、占領軍相手に春を売った女性のことを指す様に思えるが?
A、当時の兵隊はみな「パンパン」という言葉を使っていた。その朝鮮人の女の子も、「看護婦募集に応募して来てみたら騙されてパンパンにされた」と自分でそう言った。

Q、駐屯していた、大きな川の近くとはどこか。思い出すことはできないか。
A、思い出した、嫩江(のんこう)だ。非常に大きくていい川だった。
(※このサイトhttp://d.hatena.ne.jp/dempax/20141103
を参考にさせて頂きました;祖父は最初は思い出せなかったのですが紙にその名前を書いたらああそうだ、「のんこう」だ、と思い出せました。もっとも、近くとは言っても、駐屯地から嫩江までは数百mの距離はあったとのこと)

(ここまで、2014年11月21日更新分)

Q、59連隊は、チチハル駐屯時代の41年9月~42年5月までの8ヶ月間、満蒙国境付近のハンダガイ地区の防御任務に就いているが、ハンダガイという地名に記憶はあるか。行ったことがあるか。
(注:ハンダガイとは、祖父の履歴証明書にある「阿爾山(アルシャン)」を指す)
A、行ったことがある。記憶がある。確か5か月くらいはそこに居たぞ。そことチチハルの間を行ったり来たりしたような・・・ソ連に捕まる前だったとは思うが、しかしそのあたりのことはもう詳しくは思い出せない。

Q、チチハルにいた憲兵・土屋芳雄氏の著書「聞き書き ある憲兵の記録」の中に、 このように 、初年兵に訓練として匪賊の捕虜を刺殺させた、という記述があるが、そういうことをやらされた記憶はあるか?
A、自分らの隊は、そういうことは毎日のようにやっていた。匪賊の討伐が仕事だったから。ただし、他の人間がやっているのは何度も目撃したが、訓練としてそういうことをやらされた記憶はない。自分は基本的に連隊本部付きといって、偉い人達と一緒に行動する後方部隊だったから。基本的に馬の鉄沓持ちが仕事だった。中国人というのは悪いことを平気で考え、実行するような連中だった。俺らの連隊は中国人の命は人間以下のただの虫けら、動物のように考えていたな。

Q、上の人に引率されて慰安所に行ったというのは、初年兵に対する訓練の一環だったということか?
A、そういうことではないと思う。当時は日曜日、自由に遊ぶことができた。自分が居た頃は、支那事変の頃に比べだいぶ平和でおだやかになっていたから。ただし郊外には匪賊がいて危険だった。下の兵隊達が、慰安婦に悪さをしたり無茶をしないよう、上の人がついて行って管理監督していた、ということだと思う。当時は「班」というのがあって、一班あたり12~13名だった。で、その班ごとにまとまって慰安所へ行ったんだ。班長は軍曹や伍長で、彼らが引率したりした。当時は自分も伍長だったが、下の人間を引率して慰安所に連れて行った記憶は無い。とすると慰安所に行っていたのは伍長に昇格する前だったのかもな。(※訂正・3)

Q、土屋芳雄さんという人を聞いたことがある?
A、無い。

Q、当時、憲兵とはどのような存在だった?
A、巡査と同じような仕事をしていた。悪いことをしている兵隊を取り締まった。軍の風紀を守り、軍隊を取り締まる仕事だったと思う。

Q、土屋芳雄さんの土屋芳雄氏の著書「ある憲兵の記録」の中に、中国人に対し水責めなどのひどい拷問をやったという記述があるが、そのような拷問をやったことはあるか?
A、ないない(笑)。拷問はタッチしたことも見たこともない。それは多分、満州事変直後の、まだ治安が悪かった頃の話ではないか?

Q、土屋芳雄さんの本の中に、慰安所・慰安婦に関するこのような記述があるが、これについてはどう思う?
A、軍専属の慰安所で、日本人女性の慰安所があるというのは聞いて知っていたが、自分はそこには行かなかったな。自分が行ったのは朝鮮人女性の慰安所だ。また、チチハル市内には遊郭があるというのも知ってはいたが、初年兵はそこに行ってはいけないという通達があったと思う。「娘子軍(じょうしぐん)」という言葉は聞いたことがないなあ。慰安所の労働実態については、自分は詳しくは知らないんだ。戦地看護婦募集に応募して来てみたら騙されてパンパンにされた、という女の子は記憶に残っている。

Q、パラオで、アメリカ軍の爆弾が落ちて仲間の腕や足がもげて飛んできて、それを地面に穴を掘って埋めたという話を昔、家族にしたようだが?
A、そういうこともあったな。自分のところから100mくらいのところに爆弾が落ちて、仲間がやられる。腕や足が野ざらしになっている。それでは可哀想だから穴を掘って埋めた。爆弾は、飛行機からも、艦砲射撃のものも、両方あったと思う。自分のところには爆弾が来なくて、運が良かったんだ。

Q、パラオで、ネズミなどの小動物を捕まえて食べた人は病気になってみんな死んだ、自分は絶対に食べなかったので生き残った、という話を昔、家族にしたようだが?
A、そうだ。ネズミやらヘビやらを捕まえて食った人もいた。犬・猫などを殺して食った人も居たんじゃないかな。とにかく食べ物がなかったんだ。そういう人はみんな病気にかかって死んだ。ネズミなどが病原菌を持っていたんだと思う。自分は背が低く盗みが得意だったから、畑から作物を盗んで食ったが、そういう小動物のたぐいは絶対に食べなかった。自分はパラオでも偉い人と一緒に居たから、食べ物は結構あったんだよ。それも運が良かったんだ。また、ガダルカナル島などで仲間の死体を食ったという話もあるが、自分らはそこまではやらなかった。

Q、パラオでアメリカ軍の爆弾が落ちてきた時、下を見て逃げた防空壕に入った人はみんな死んだが、自分は逆に上を見て、どこに爆弾が落ちてくるか予測しながら逃げた、だから助かった、というような話を昔、家族ににしたようだが?
A、そういうこともあった。自分は運が良かったんだよ。「たまたま」だと思うんだが、自分のところには爆弾が落ちてこなかったんだ。

(ここまで、2015年2月16日更新分)

Q、じいちゃんは戦地での「強姦」をやったことは?
A、強姦はやったことはない。強姦をしてはいけない、という決まりがあった。ただし、強姦をしたとしても事実上、黙認のような状態だったと思う。例えばチチハルの野戦で、中国の若い女がいた、それを強姦したとしても、生きるか死ぬかの戦争だから、憲兵隊とかも、黙認状態でお咎めなし、という状態だったと思う。だから中国人たちは、若い女達をどこかに隠したんだ。そもそも強姦自体、あまり多くあったものではないと思う。規則を破って強姦した者も少数だったのだと思うが、黙認状態だったのだと思う。

Q、「性病」に関しては、軍はどのように考えていたのか?
A、自分は前線とはかなり離れた「後方部隊」にいた。そこには衛生部隊(衛生兵)というのがいて、病気になったりケガしたりして前線から運ばれてきた兵隊を治療していた。軍が慰安所を作った理由の一つは性病まんえん防止のためだった、というのはその通りだ。軍専属の慰安所以外の、遊郭や民間の売春宿のようなところへは行ってはいけない、という決まりはあったが、こっそり行く者はいた。しかしそれでも罰などはなく、事実上黙認のような状態だったと思う。

(ここまで、2015年3月23日更新分)

Q、被害者の朝鮮人女性・張秀月さんという方がこのように被害証言をしているが、どう思うか?

A、慰安所の形については、このような建物だったのかもしれない。横長で、仕切りがあって・・・すまないがその辺はちょっと記憶が曖昧で、忘れてしまった部分もある。即席で作ったような、比較的新しいような粗末な建物だったと思う。自分の行っていた朝鮮人女性の慰安所で、日本人の主人(慰安所経営者)というのは、見た記憶がない。慰安婦を殴ったり蹴ったりして暴行を加えるというのは、自分はやっていない。夜は将校の相手をさせるとかの話もちょっと聞いたことが無い。日本人が経営している慰安所があるというのは、話には聞いたことがある。チチハルには、慰安所は何箇所もあったのだと思う。・・・自分が行っていたのはその中の軍専属の慰安所だ。町外れの、農家のようなところにあった。女性集めの方法は、中将クラスの人が師団長というのをやっていて、そういう人たちが女性を集めてきて各連隊ごとに女性を振り分けた、という話は聞いたことがある。朝鮮人集めの業者というのは見たことがなく、軍が直接やっていたのは確かだと思う。当時は朝鮮人は、日本の言うことを聞くしかなかった。日本人でさえ上からの命令には逆らえなかったから、朝鮮人はなおさら。朝鮮人の男はソ満国境近くに連れていって「壕」を掘らせたりしていた。ドカタにして奴隷扱いだよ。当時、自分は尋常小学校を出て、青年学校に行き、その後成人徴兵検査を受け、第一期検閲が3ヶ月、そのあと兵役に就いた。自分は農家で馬の扱いに長けていたから、馬の鉄沓持ちの仕事を任されたんだ。

(ここまで2015年5月22日更新分)

Q、張秀月さんは、日本軍人から殴る蹴るの暴行を受けたと証言しているが、これについてはどう思う?

A、戦争中はな、そういうことはしょっちゅうあったんだよ。

Q、戦争中だから、敵国の人間にそういうことをするなら理解できるが、当時の朝鮮は日本の植民地、属国だったわけで、少なくとも敵国ではなかったはず。なぜ朝鮮人にそこまでひどいことをしたのか?

A、朝鮮人というのはな、人間扱いされてなかったんだよ。男はドカタ、女は看護婦募集などと偽って慰安婦にした。それに、敵国ではなかったといっても元々は敵国だったんだ。朝鮮人を戦場へ連れていくと、うっかりすると危ないってことで、内地でドカタなどをやらせたんだ。日本軍人が朝鮮人に殴られるとか、そういう事件もあった。そういう、反乱などを起こされると危険だと判断したんだ。

Q、うーん、それでも、なぜ朝鮮人をそこまで人間扱いしなかったのか、なぜそこまでひどいことをしたのか、という疑問が残るんだけど・・・

A、明治時代の朝鮮併合以来、朝鮮は日本の世話になっていたんだよ。日本の属国だった。工事現場の仕事とかも朝鮮人にやらせたし、朝鮮人は日本人の言う事をよく聞いたんだ。彼らは日本人を神様のように崇めていた。だから日本人も朝鮮人を見下すようになっていった。そういう、朝鮮に対する差別意識や、朝鮮人は日本の言う事を何でも聞く、というような意識が、だんだんエスカレートして奴隷扱いするようになっていったのだと思う。

(ここまで2015年10月30日更新分)

Q、戦争で一番、記憶に残っていることは?

A、そうだなあ、自分は鉄沓持ちの後方部隊だったからほとんどタマの下には行かなかったな。実戦ではほとんど危険な目に遭わなかった。

Q、元関東軍参謀の原善四郎という人を知っているか?

A、知っている。有名な人だ。確か元は兵隊だったんじゃ?しかし、何をやった人だっけ?

Q、その人が飛行機で朝鮮へ飛んで総督府に女性集めを依頼した、と証言している。

A、ああ、そうか。

Q、戦地看護婦募集に応募して来てみたら騙されてパンパン屋にされた少女と出会ったのはいつ頃のこと?チチハルに着いてすぐのことか、それともしばらくしてからか。

A、もう詳しくは思い出せない。

Q、こないだ韓国へ行ってきて、元慰安婦のおばあさんと会ったし、抗議集会にも行った。(ここ)こういうのを見てどう思う?じいちゃんらの時代に日本人がやったことが未だに解決できてないんだけど。

A、朝鮮人はパンパン屋にされて可哀想だったよ。あの戦争は日本人が一番悪かったな。日本の軍隊が悪かったんだ。しかし韓国も、大東亜戦争の頃は日本の属国だったのに、今では独立して経済発展して、大したもんだ。

Q、なぜそれを、当時は悪いと思わなかったんだろうか?

A、上からの命令だったからだよ。上というのは天皇だ。天皇のやることは間違いない、と。まあ天皇に戦争するよう助言した連中がいるんだけどな。

Q、東條英機とか、一部の戦争指導者?

A、そうだ。もうお前のほうが色々勉強して、よく知ってるんじゃないか?なんでこういう事を勉強してるんだ?

Q、自分は戦争当時の事は学校の歴史教科書で勉強して、一通りは知っていたつもりだった。でも従軍慰安婦問題は教科書に載っていなかった。じいちゃんから話を聞いて初めて、これが事実だという事が分かったんだ。それが悔しくて。これは当時の国家や軍が直接的に、組織的にやっていた制度だった訳だけど、日本政府は90年代までそれを隠してきた。今でも一部の重要な資料は隠してる。国民に知らせないようにしてきたんだよ。だから悔しくて、いろんな本読んで勉強したんだよ。

A、なるほどな。

(ここまで2016年6月14日更新分)

 

※この証言内容を歴史学者の林博史 教授に送ったところ、貴重な証言である、ぜひおじいさんの証言を文字にして後世に残していって欲しい、慰安婦の強制性や軍の関与は歴史学界では当然の事実として認められていることです、との回答をいただきました。
※さらに、林博史 先生のサイトに紹介していただくことが出来ました。
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/index.html(14年10月6日更新分)