「慰安婦」の事をパンパン(屋)と呼ぶ証言

●『関東軍女子特殊軍属服務規程』  軍医(78歳)(匿名)の証言
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 関東軍補給監部というのがあり、慰安婦の「補給」の仕事もしていました。鉄道で女たちを連れてくるのですが、一両に二〇〇人を乗せ、外から見えないようにしました。一〇両の貨車で二〇〇〇人が一度に運ばれました。補給監部衛生下士官が総指揮官となり、朝鮮人、日本人やくざが武器を持って、女たちが逃げないように見張りをしました。
 満鉄の列車は広いので、列車そのものが「パンパン列車」になりました。第三、第四、第五国境軍は何月何日までというように、「パンパン列車」を置く日の命令書が出されました。
  私は将校の立場でしたから、あらゆる書類を見ることができましたが、下士官の伍長に全部任せました。宰領してくると、民家を接収して、「パンパン宿」を作りました。国境の宿はみな、関東軍の慰安所になりました。 
 海城にあった慰安所は、日本から来たサーカスなどの慰問団が帰れなくなって、そのまま「パンパン」になりました。牡丹江の奥には、九州のパー、カフェの女給がいました。場所によって違いましたが、やくざがとり仕切り、日本人、朝鮮人、中国人の順に値段が安くなりました。
 牡丹江の奥、エッカ、マカキュウには、民家を接収した慰安所がぼつんぼつんとありました。朝鮮人、中国人、それにカフェや飲み屋の日本人が慰安婦でした。 
 エッカでは、朝鮮服の女性を見ました。慰安婦だったために国に帰れず、現地の掘っ立て小屋に残っていました。ひどいインフレで、貯めたお金は使えませんでした。・・・
 
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 兵隊たちは、「パンパン屋」にずーっと並んで、ズボンを下ろして「早くしろ」と待っています。その間に射精してしまうので、実際にするものは少なかったと思います。
 見渡す限り荒涼とした風景に、兵隊たちは飢えていました。遠くに、満州の荒野に晒されている死体の入った棺桶が見えました。人間て、怖いものです。動物と同じです。猥談と食べることの話ばかりでした。・・・
以上、「従軍慰安婦110番」(1992年、明石書店)P23~P25より。
 
●『ラバウルから送られてきた朝鮮人慰安婦』――戦友会を訪ねての聞き取り(複数証言)――
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 今になって新聞なんかで読むと、そういうことだったのかと思います。知りませんでしたね。「朝鮮」だったが、べべの毛が薄かった。二二、三歳でした。
 慰安所に通う海軍士官が、毎夜酒を飲んで夜中に大声で放歌しながら「パンパン屋」に通うのが度重なるので、怒った二六歳の中隊長が、軍刀を振りかざして叩き切るということが、何度もありました。実態がどうだといったって、セックスが明日の命を忘れさせてくれたんです。
 「特殊看護婦」といって、だまして連れてきたようです。
 目の前が慰安所でした。童貞で兵隊に行きました。「いつ死ぬか分からないから筆下ろししろ」と言われて、強引に班長に慰安所に連れていかれました。・・・
以上、「従軍慰安婦110番」(1992年、明石書店)P68~P70より。
 
※「従軍慰安婦110番」とは、1992年に市民団体などが中心となって元日本軍関係者に広く従軍慰安婦に関する情報提供を求めた企画。以下参照。(冒頭部分)